こんばんはー。
今回は信長に敵意を露わにした堺の町に対し、柴田勝家らが2万貫の支払いを要求した時の書状です。
「15日までに支払わなければ御成敗」、「もってのほか御腹立ち」など、身も震えるような恐ろしいことが記されています。
なぜこのような事態になってしまったのでしょうか。
当時の時代背景も合わせてご覧いただきましょう。
なぜ堺の町へ脅迫状を出したのか
永禄11年(1568)9月。
織田信長は大軍を大軍を率いて岐阜から京都へ攻め上り、瞬くうちに京都を掌握。
10月には信長が庇護する足利義昭が第15代征夷大将軍に就任し、畿内周辺の諸勢力を支配下に置きました。
義昭は信長に「わが父」と最大限の賛辞を送り、大津・草津・堺の町に代官を置くことを認めます。
信長は摂津の石山本願寺や、大和の法隆寺、和泉の堺の町などに軍資金(矢銭)の供出を命じました。
敵は三好氏とはいえ、三好氏も二つに割れていた。
さて、堺の町は当時、阿波の三好氏と強い利害関係を持っていました。
三好三人衆たちが織田信長と交戦状態にあったことから、阿波三好氏を支援していました。
この信長の上洛戦で、三人衆らは畿内から撤退せざるを得なくなりましたが、堺の町は彼らの軍事力を頼みにして、信長への軍資金の供出を拒む決断を下します。
その翌年、六条本圀寺の変という割と大きな事件が起き、堺の町衆たちが阿波の三好氏を支援したことで、信長の怒りは頂点に達します。
堺の町を支配下に置かずして、阿波の三好勢力の力を削ぐことはできないと判断したのかもしれません。
今回の書状は、そうした時代背景の中で出されたものです。
詳しい内容は後半に書くとして、まずは例の文書をご覧いただきましょう。
柴田勝家・佐久間信盛らが堺の町に送りつけた脅迫状
当ブログでは便宜上この文書を”永禄十二年四月一日付柴田勝家等連署状”としていますが、もしかすると正式名称は「和泉堺西荘惣中宛佐久間信盛等連署状」というのかもしれません。
原文
永禄十二年四月一日付柴田勝家等連署状
今回は少しだけ文が長いため、画像を二つに分けてご紹介します。
永禄十二年四月一日付柴田勝家等連署状a
永禄十二年四月一日付柴田勝家等連署状b
釈文
(a)
猶以、来十五日以前、
於不相澄者、可有御成
敗之由、以外御腹立、可被
今度之御用
得其意候、
脚、一圓難渋無是
非候、依之為催促、
可罷下旨、被仰出候、
一両日中、可令下
着候、早々用意肝
要候、先為案内申上候、
恐々謹言、
(最後の書留文言にあたる”恐々謹言”は、もしかすると恐々頓首かもしれません)
(b)
柴田修理亮
卯月壱日 勝家(花押)
坂井右近尉
政尚(花押)
森三左衛門尉
可成(花押)
蜂屋兵庫助
頼隆(花押)
佐久間右衛門尉
信盛(花押)
堺 兩庄惣中
原文に釈文を記してみた
(永禄十二年四月一日付柴田勝家等連署状a+釈文)
(永禄十二年四月一日付柴田勝家等連署状b+釈文)
書き下し文
(a)
このたびの御用脚、
一円難渋是非無く候。
これによって催促のため、
罷り下るべき旨、仰せ出され候。
一両日中、下着せしむべく候。
早々に用意肝要に候。
まず案内のため申し上げ候。
恐々謹言。(※ここはもしかすると恐々頓首かも)
(b)
柴田修理亮
卯月一日 勝家(花押)
坂井右近尉
政尚(花押)
森三左衛門尉
可成(花押)
蜂屋兵庫助
頼隆(花押)
佐久間右衛門尉
信盛(花押)
堺 両庄惣中
(尚々書き部分)
猶もって、来たる十五日以前、
相済まさざるに於いては、御成敗
あるべきの由、もってのほか御腹立ち、
その意を得らるべく候。
原文に書き下し文を記してみた
(永禄十二年四月一日付柴田勝家等連署状a+書き下し文)
4月1日 柴田勝家以下は省略します。
読む順番の説明
一枚目の画像(aの方)にある
「猶以、・・・」からはじまる色を少し変えた部分は、尚々書き(なおなおがき)といい、現在の追伸にあたります。
当時はこのようにわけのわからないところでこれをぶっこんできました(^^;
過去に書いた記事では織田信忠の文書と姉川の合戦前夜の信長の文書がそれにあたります。
猶以(なおもって)からはじまるのが特徴的なため、尚々書きと呼ばれているのでしょう。
従って、色で分けられた部分は後回しにして読みます。
現代語訳
おまえたちの矢銭の供出が無いので、我々一同が難儀しているのは当前のことだ。
この件について(信長様から)おまえたちのところへ催促に行くようにと命じられた。
一両日中には当地へ着くはずだから、金の方は耳をそろえて用意しておけ。
そのため予め通達しておく。
4月1日 柴田勝家(花押)
坂井政尚(花押)
森可成(花押)
蜂屋頼隆(花押)
佐久間信盛(花押)
堺 両庄惣中へ
追伸)なお、来たる十五日までに上納を済ませないと、信長様がおまえたちを成敗すると殊のほかご立腹だから、よくよく思案せよ。
堺の町が信長に屈する
いかがでしたか?
追伸部分で「御成敗あるべき」に、「もってのほか御腹立ち」と続き、「その意を得らるべく候」で締めた書状を見た堺の有力者たちは恐らく恐怖したことでしょう。
事実、堺の町は抵抗を止めて2万貫を信長に供出します。
以後堺の町は信長による直轄化が進むとともに、徐々に自治の機能を失い衰退してゆくのです。
さて、ここから先は専門性の強い・・・少しマニアックな内容となりますので、信長と堺の町の関係性に興味のある方は是非ご覧ください^^