堺は「東洋のベニス」
堺の名の由来は、和泉国と摂津国、そして河内国の堺目に位置したことからきています。
戦国時代には国内交易はもとより、海外との貿易港としても大きな役割があり、当時日本に来ていた宣教師は「東洋のベニス」と感嘆するほどの賑わいでした。
堺には会合衆(えごうしゅう)という商人たちが自治の町を運営し、そこに影響力をもった阿波国の三好氏と深い繋がりがありました。
多くの権益と自治を堺の町衆に認め、緩やかに統治してそこそこの利益を得る。
面倒事はおまえたちが勝手に片づけてくれよな!
といった感じだったのかもしれません。
最近話題になったニュース記事では、当時堺に居住していた千利休が、三好家の老臣として活躍した三好宗渭に宛てた書状が新たに見つかったようです。
そこには三好家の重鎮と茶会を供にし、親しげな内容が記されています。
「三好三人衆の一人・釣竿斎宛て利休の手紙 永禄年間、親密な交友」 徳島新聞
(リンク先は外部サイトとなります)
また、当時最先端の兵器だった「鉄砲」の製造も盛んで、紀州の雑賀氏・根来氏などは鉄砲使いの傭兵集団として既に恐れられた存在でした。
信長による矢銭の要求
信長は上洛して間もない永禄11年(1568)10月2日に摂津・和泉・大和の領国に矢銭の供出を命じます。
具体的には
摂津の石山本願寺から5000貫。
大和の法隆寺から1000貫余。
そして堺の町からは2万貫という莫大なお金でした。
石山本願寺と法隆寺は信長の武威を恐れて、あるいは信長という強力な庇護者に期待して満額支払います。
一方堺の町は、盟友ともいえる阿波三好氏を頼んで信長と徹底抗戦する様子を見せました。
堺の会合衆の一人津田宗及の文書には、
“堺の町では多くの浪人を雇い、町のいたるところに櫓をあげ、堀をつくり、また土塁も築いた。道具や女子は大阪・平野に疎開させた。”
とあります。
頑なに協力を拒む堺の町に対し、この時の信長は屈服させることを諦め、早々に岐阜へと引き上げていきました。
ところが、年が明けてすぐに京都で異変が起こります。
六条本圀寺の変と堺の町の2万貫
永禄12年(1569)1月5日に起きた六条本圀寺の変です。
将軍に就任して間もない足利義昭の宿所に、阿波から三好勢が襲いかかってきたのです。
この時は細川藤孝、明智光秀ら幕府奉公衆が決死の防戦をし、さらに異変を聞きつけた三好義継・池田勝正らが援軍に駆けつけます。
この報せを岐阜で聞いた信長は、急ぎ馬を走らせてわずか2日で入京。
阿波勢は諦めて撤退しました。
この阿波勢に協力した最大の勢力が、堺の町だということは恐らく間違いないでしょう。
信長は堺に対し激しい敵意を募らせます。
信長と足利義昭は、残敵の掃討を進めるとともに、堺の町人たちに圧力を加えました。
このとき、織田政権側でその役目を命じられたのが、当時摂津尼崎あたりで行動していた柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚たちでした。
同年2月。
織田信長と足利義昭からの使者として佐久間信盛・森可成・柴田勝家・蜂屋頼隆・坂井政尚・和田惟政・結城進斎たちが堺に赴きました。
そこからどういった経緯があったのかはわかりませんが、2月11日に柴田らをはじめとする上使100人ばかりを津田宗久が自宅に招いて茶会を開いています。(宗及茶湯日記他会記)
この時宗及は、信長と敵対する阿波の三好氏に味方していたと見られていて、彼がどのような思いで茶会を催したのか、とても興味深いです。
それから2か月も経たぬうちに今回の古文書が誕生しました。
(岡本良一氏所蔵文書)
これにより、堺の町衆たちは2万貫を完納して信長に屈服したのは先に述べた通りなのですが、なんと同年4月16日に信長は内裏修理費として、朝廷に1万貫を献納しています。(御湯殿の上の日記)
確かに今回の文書には15日までには完納せよとの内容でしたので、2万貫のうちの半分を朝廷に献上した可能性が高いですね。
ちなみにこの当時の信長は京都にいて、京都御所のすぐ隣に将軍の新御所を建設中でした。
もう一つ、堺の町が自治を失っていく過程を物語る面白い文書があります。
(今井宗久書札留)
急度申候、地頭詰夫並諸役以下難渋不相届由、信長被仰出候、早速可被勤事肝要候、不可有油断候、恐々
八月十八日 佐久間信盛
さかい 北庄端郷中
“手短かに申します。
地頭、詰夫、ならびに諸役以下の動員徴発が滞っていると信長様が仰せです。
速やかに人夫の差し出されることが肝要です。
御油断無きようお願いします。
1569年8月18日 佐久間信盛”
これは同年の8月に信長家臣の佐久間信盛が堺に宛てた書状です。
それからほどなくして堺には織田家の代官が置かれ、合戦によって三好家が衰退していくにつれて自治を完全に失いました。
当時の織田家は畿内の政治にチームを組んで対応していた
この時期の織田家は、有力家臣を大きく二つに分けて、チームを組んで対応していました。
仮にAチームとBチームにするならば
Aチーム
丹羽長秀・明智光秀・木下秀吉・中川重政・村井貞勝・島田秀満
Bチーム
柴田勝家・佐久間信盛・坂井政尚・森可成・蜂屋頼隆
といった具合です。
京を中心とする畿内に大きな影響力を持った信長は、彼らに奉行の役割を担わせて様々な問題を解決しようとしました。
例えば知行の安堵の事務処理、寺社領の安堵と裁判の沙汰、朝廷との折衝、禁裏や御所の修理とそれに伴う人足・物資の徴発、幕府との調整、畿内諸勢力との取次ぎ、税を払わない者への催促など挙げたらキリがありません。
今回の記事は柴田勝家らのグループですので、おもにBチームの仕事について書きます。
信長が足利義昭を奉じて上洛してすぐの永禄11年(1568)10月12日付けの禁制で、佐久間信盛を除くBチームが連署で署名していることが明らかになっています。
そのため、この時は織田軍の先陣として、4人1グループになって軍事活動をしており、しばらくはこの4人での連署状が散見されています。
一方の佐久間信盛も信長本隊とは離れて幕府奉公衆の和田惟政・細川藤孝と大和へ侵攻しており、寺社などから矢銭を徴収していることが明らかになっております。(多聞院日記)
しばらくして大和の情勢が安定すると、佐久間は河内へ移動し、翌永禄12年(1569)2月には柴田らBグループの4人と合流しています。
同年2月1日に天野山沙汰所、3月2日に多田院への書状には、いずれもこの4名の名があります。
そして4月1日。
今回の堺の古文書へと繋がりました。
このように、この当時の堺方面の政治は幕府奉公衆とBグループが管轄していたと考えられます。
特に佐久間信盛は、翌年以降も引き続き河内方面へ利害関係をもっており、のちに大和・摂津・和泉・近江の一部も彼の所領となった原型が形作られていきました。
AグループとBグループの政治を比較すると、朝廷や寺社との折衝に深く関わるAグループに対し、柴田らのBグループは、軍政に関わることが多かったのではないかと私は考えます。
やがて元亀元年(1570)に浅井長政が信長に敵対したのを契機に、4名揃っての連署状はパタリと消えます。
彼らは大身の侍大将らしく、近江国へと配置されたのです。
元亀元年(1570)5~6月の織田信長による近江支配体制
関連記事:これが織田方面指令軍の原点 織田信長による近江支配体制の確立
長光寺城に柴田勝家、永原城には佐久間信盛が。
そして湖西街道の要害に位置する宇佐山城には森可成が配置されました。
この時、Aグループの丹羽長秀と、のちに横山城に配置される木下秀吉は京都での政務に忙殺され、都に留まることが多かったようです。
今井宗久 ~信長に協力した数少ない堺の豪商~
さて、堺の町衆は信長に敵対的だったことは先に述べた通りですが、中には信長に味方する豪商もいました。
それが今井宗久です。
彼は堺の会合衆の一人で、当時はまだ新興グループの納屋衆に属していました。
今井宗久肖像(京都市立芸術大学所蔵)
織田軍が上洛して間もなくの永禄11年(1568)10月に、宗久は信長が本陣を置く摂津芥川山城へ赴き、一級品の茶器として名高い松嶋の壷と紹鷗茄子を信長に進呈します。
ここまでは御存知の方が多いと思います。
しかしながら、事態はもっと複雑でした。
なぜならば、彼はかの有名な武野紹鴎(たけのじょうおう)の女婿となって、紹鴎の家財や茶器のすべてを譲りうけており、その宗久が堺の町衆の決定を裏切るような形で信長に味方したからです。
ましてや紹鷗茄子まで手土産にしたとあっては、多くの反感を買ったのは言うまでもないでしょう。
事実、紹鴎の長男新五郎がこれに憤慨して訴訟沙汰となりました。
信長は和解を勧めたのに、後者が承知しなかったとの理由で、宗久が勝訴となり、新五郎の家財・茶器などは没収の上で追放という結果となりました。
以後、堺の町の織田家直轄化が進むにつれて、今井宗久は津田宗及とともに堺のトップクラスの人物として火薬や鉄砲の調達、会合衆の懐柔、情報の提供などを担い、織田信長の覇業を支えました。
ご覧いただきありがとうございました。
堺の町と信長との関係について、これまであまり調べてこなかったので、色々な学者の論文を読むのは新鮮で面白かったです。
参考文献:
岡本良一(1970)『戦国武将25人の手紙』朝日新聞社
谷口克広(2010)『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館
太田牛一(1881)『信長公記.巻之上』甫喜山景雄
奥野,高廣(1979) “<論説>織田政権の蔵入領” 史林,62(4):520-558
久野,雅司(2015)”織田政権の京都支配における奉行人についての基礎的考察” いわき明星大学人文学部研究紀要,28:40-67
藤本誉博(2017)『室町後期から織田権力期における堺の都市構造の変容』,国立歴史民俗博物館研究報告,第204集
など