外交

6.信長以外の歴史系記事

武田北条今川 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説(5)

今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事になっています。当記事はその5回目。北条氏康の危機を救ったのは武田晴信でした。晴信は今川義元と交渉し、北条家が河東地域から完全に手を引くという条件で合意にこぎつけます。残るは関東の敵8万余騎。のちに河越夜戦とよばれる戦いは日本三大奇襲の一つとして有名です。
6.信長以外の歴史系記事

武田北条今川 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説(4)

今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事になっています。当記事はその4回目。北条氏綱の代に河東地域を奪われた今川義元は、ついに奪還へと動きます。義元は甲斐の武田晴信だけでなく、山内上杉氏、扇谷上杉氏、さらに古河公方足利氏とも連携し、北条大包囲網を敷きます。絶体絶命の北条氏康。この難局をどう切り抜けたのか。
6.信長以外の歴史系記事

武田北条今川 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説(3)

今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事になっています。当記事はその3回目。氏綱包囲網が敷かれて北条家が大ピンチの中、当主の氏綱が病死。家督を氏康が継ぎます。一方、甲斐では武田晴信がクーデターを起こして当主となります。これにより、武田-北条間で急速に関係の改善が模索され、甲相駿の外交関係は新たな局面を迎えます。
6.信長以外の歴史系記事

武田北条今川 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説(2)

今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事になっています。当記事はその2回目。今川義元-武田信虎間での同盟の成立から北条氏綱が駿河へ攻め立てた第一次河東一乱までです。宿敵ともいえる三大名がどのような苦難を乗り越えて同盟へと至ったのでしょうか。
6.信長以外の歴史系記事

武田北条今川 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説(1)

今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事になっています。今川家と武田家、後北条家による甲相駿三国同盟がどのような経緯を辿って結ばれたかを、天文5年(1536)あたりからわかりやすく解説します。さあ、宿敵ともいえる三大名がどのような苦難を乗り越えて同盟へと至ったのでしょうか。
6.信長以外の歴史系記事

「手切之一札」 戦国時代にも同盟破棄を宣言する場合があった

戦国時代の同盟破棄のルール「手切之一札」についてご説明します。「てぎれのいっさつ」といいまして、同盟を破棄する際は双方からこれを送り合い、正式に国交断絶を宣言しました。目次:1.同盟の不安定さ 2.必殺!手切之一札 3.手切之一札はなぜ一つも現存していないのか 4.手切之一札を送らなかった場合のデメリットなど
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 武田信玄 ついに西上作戦を開始する

信長の年表10回目です。おもな出来事は、将軍に意見十七ヶ条を送りつける、美濃国人・遠藤氏の内通、武田信玄 ついに西上作戦を開始、おつやの方の裏切り 岩村城が武田家の手に渡る、延友信光の忠義、武田信玄 遠江で目覚ましい進撃を見せる、信長包囲網崩壊の序曲 朝倉義景 突然の帰国、三方ヶ原の合戦 徳川・織田連合軍の敗北などです。
織田信秀が出した古文書

織田信秀が足利将軍家へ宛てた書状 そこから見えてくるものとは!?

今回は織田信秀が足利幕府へ宛てた書状の解読をします。現存する織田信秀の書状自体、非常にレアです。朝廷への接近ばかりが強調される信秀ですが、ここにはどのようなことが記されているでしょうか。当記事もいつものように原文に釈文、書き下し文、現代語訳を載せています。
4.織田信長家臣団

大河ドラマとなる明智光秀の生涯をなるべく詳しく(4)

主な出来事は、徳川家康の饗応と信長勘気の信憑性、ときは今あめが下知る五月かな、本能寺の変、織田信忠の二条御新造も攻撃する、本能寺の変後の明智光秀の行動、信長・信忠父子の遺体 見つからず、山崎の合戦、明智光秀の最期などです。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

大河ドラマとなる明智光秀の生涯をなるべく詳しく(3)

惟任光秀の名乗り、丹波攻略を進めつつ各地での戦にも活躍、長宗我部氏の奏者として、遊撃軍団長としての光秀、荒木村重謀叛、八上城攻略と光秀の生母人質の真偽について、ついに丹波を平定する、そして丹波国主へ、織田軍団再編成 佐久間信盛らの追放、京都馬揃え、丹波亀山城と明智軍紀、甲州征伐などです。