斎藤氏

3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

【信長包囲網成立】野田・福島の戦いを図で解説 前編

織田信長と三好三人衆らが戦った野田城福島城の戦いをわかりやすく解説します。今回は前編ということで、池田城の異変から信長勝利目前までです。この戦いは日本で初めて大口径の火縄銃を使用したという説もあります。紀州から雑賀・根来の鉄砲集団が大活躍した合戦です。
織田信長が出した古文書

美濃攻略!織田信長の楽市・楽座政策の真相

今回は信長が稲葉山城を攻め落とした直後の時代。稲葉山城下である「加納に出した制札」の解読をします。古文書の読み方と共に、加納に楽市・楽座令が実施されたことによって、どのような影響を与えたのかご説明します。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

堂洞城の戦い 戦の功名と八重緑の悲劇

織田信長が進める美濃攻略の大きな契機となった堂洞城の戦い。あまり有名な戦いではないが、中濃で一番の激戦が繰り広げられ、鉄の結束を誇ってきた斎藤家は、これ以後衰退の一途をたどるのである。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

十四条・軽海合戦 一日二決戦!まさかのダブルヘッダー

永禄4年(1561)。先の森部合戦で勝利した信長は、墨俣城を奪取。大きな損害を受けながらも墨俣城に入り、兵を休まる暇なく痛手を受けた墨俣城の修復に取り掛かっていた。敗れた斎藤軍だが、すぐさま新手の兵を繰り出し、墨俣より北北東6キロの十四条村に布陣。信長もこれを迎え撃つため十九条村に布陣するのだが・・・
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 美濃攻略戦

今回は織田信長の年表4回目です。永禄7年(1564)9月後半から永禄10年(1567)9月までとなっております。この間の主な出来事は、上杉輝虎との外交、永禄の政変、加治田城主佐藤父子の内応、鵜沼城の戦い、猿啄城の戦い、加治田城救援戦、堂洞城の戦い、烏峰城の戦い、関城の戦い、武田家との縁組外交、河野島の戦い、北伊勢侵攻、稲葉山城の戦いです。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

森部の戦い 美濃攻略に燃える信長と若き前田利家の武功

桶狭間の戦いに大勝利した信長は、次なる野心を隣国美濃に向ける。美濃は亡き舅の斎藤道三が治めた地であった。永禄3年(1560)。信長は美濃に2度攻めたが、いずれも敗北を喫している。美濃の屈強な侍と、濃尾の国境に流れる3つの大河・・・。何か手を打たねばならぬと考えていた矢先、思いもよらぬ朗報が信長の元にもたらされるのであった。
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表のちょっと詳しめ 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで

今回は織田信長の年表3回目です。永禄3年5月から永禄7年末までとなっております。この間の主な出来事は、桶狭間の戦い、斎藤義龍の病死、西美濃攻略戦、松平元康との同盟、織田信清謀叛、小牧山城築城、竹中半兵衛の城乗っ取り、犬山城攻略です^^
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表のちょっと詳しめ 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで

今回は織田信長の年表2回目です。天文23年(1554)11月から永禄3年5月までとなっております。この間の主な出来事は、叔父信光の死去、守山城の異変、長良川の戦い、弟信勝謀叛、稲生合戦、岩倉織田家のお家騒動、浮野合戦、信勝謀殺、将軍義輝との謁見、岩倉織田家滅亡です^^
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

信長と斎藤道三の知恵比べ?正徳寺の会見

織田信長と斎藤道三の心理戦。「正徳寺」の会見は信長にとって、尾張統一へと踏み出す大きな一歩になったのではないだろうか。様々な説を総合的に見て、ドラマ風に仕立ててみた。
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表のちょっと詳しめ 誕生~叔父信光死去まで

当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1