らいそくちゃん

4.織田信長家臣団

佐久間信盛 織田家中ナンバー1の知行からの追放

信長が家督相続期からの重要な家臣であり、尾張統一時代の最も苦しい時代から信長を支え続けた。その後は信長の主要な合戦のほとんどに姿を現し、政治面や外交面でもたびたび名が見える。織田信忠を補佐した後、本願寺攻めの総大将に任命され、実に7ヵ国の兵を動かせる軍団長となった。しかし、思いもよらぬ折檻状が送りつけられ・・・
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

十四条・軽海合戦 一日二決戦!まさかのダブルヘッダー

永禄4年(1561)。先の森部合戦で勝利した信長は、墨俣城を奪取。大きな損害を受けながらも墨俣城に入り、兵を休まる暇なく痛手を受けた墨俣城の修復に取り掛かっていた。敗れた斎藤軍だが、すぐさま新手の兵を繰り出し、墨俣より北北東6キロの十四条村に布陣。信長もこれを迎え撃つため十九条村に布陣するのだが・・・
6.信長以外の歴史系記事

兵庫県はなぜあんなに大きいの?知られざる3つの県と統合の理由

青森県から山口県まで車で行くとします。必ず通過しなければならない県はどこでしょう?この問いに答えられる人はいますか?もちろん地理に明るい方や車をよく運転する方ならわかりますよね。ではこれはどうでしょう。兵庫県はなぜあんなに大きいのでしょうか?これを答えられる人は少なそうです。その謎に今回は迫りたいと思います。
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 美濃攻略戦

今回は織田信長の年表4回目です。永禄7年(1564)9月後半から永禄10年(1567)9月までとなっております。この間の主な出来事は、上杉輝虎との外交、永禄の政変、加治田城主佐藤父子の内応、鵜沼城の戦い、猿啄城の戦い、加治田城救援戦、堂洞城の戦い、烏峰城の戦い、関城の戦い、武田家との縁組外交、河野島の戦い、北伊勢侵攻、稲葉山城の戦いです。
4.織田信長家臣団

柴田勝家 無類の強さを誇る歴戦の名将

信長の父の時代から既に名の聞こえた将であった柴田勝家。弟信勝の家臣として信長に反旗を翻す。敗れた後は心を入れ替え信長に忠義を尽くし、常に戦では先陣を任されるようになる。あまり知られてはいないが、信長の上洛後は奉行としてたびたび文書を発給したり、領国の経営にも力を注いでいる。今回は勝家の詳細を余すことなく書き連ねよう。
4.織田信長家臣団

森可成 並外れた武勇と忠義で幾度となく信長の窮地を救った男

信長股肱の臣・森可成。織田信長初期の合戦から活躍し、美濃攻めにおいては丹羽長秀と並び抜群の功を立てた。美濃攻略後も上洛戦、伊勢攻め、金ケ崎・手筒山の合戦、姉川合戦と主要な戦いには必ず参陣している。森長可や蘭丸の父として有名な武将であるが、その詳細を記す記事は少ない。今回はその可成の足跡を辿る。
4.織田信長家臣団

丹羽長秀 信長が最も信頼した武将の生涯

丹羽五郎左衛門長秀。信長のヤンキー仲間から戦、政、智とオールマイティに活躍した武将。稲生合戦、桶狭間合戦、美濃攻略戦、上洛戦、伊勢平定戦、姉川合戦等信長の代表する合戦ほぼすべてに従軍。また、小牧山城や安土城の築城・・・。長秀の活躍とその足跡を辿る。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

森部の戦い 美濃攻略に燃える信長と若き前田利家の武功

桶狭間の戦いに大勝利した信長は、次なる野心を隣国美濃に向ける。美濃は亡き舅の斎藤道三が治めた地であった。永禄3年(1560)。信長は美濃に2度攻めたが、いずれも敗北を喫している。美濃の屈強な侍と、濃尾の国境に流れる3つの大河・・・。何か手を打たねばならぬと考えていた矢先、思いもよらぬ朗報が信長の元にもたらされるのであった。
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表のちょっと詳しめ 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで

今回は織田信長の年表3回目です。永禄3年5月から永禄7年末までとなっております。この間の主な出来事は、桶狭間の戦い、斎藤義龍の病死、西美濃攻略戦、松平元康との同盟、織田信清謀叛、小牧山城築城、竹中半兵衛の城乗っ取り、犬山城攻略です^^
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

浮野の戦い 織田信長の尾張の支配者を賭けた壮絶な合戦

兄弟相克の戦いに勝ち、織田家の権力基盤を固めた織田信長は。かねてより険悪な仲だった岩倉織田家で、御家騒動が勃発。これを好機と見た信長は、犬山織田家と婚姻関係を結び、ついに尾張上四郡の支配者、岩倉織田家に挑むのであった。