こんばんはー。
今回は信長が足利義昭に突き付けた殿中御掟(でんちゅうおんおきて)の第三段目。
「殿中御掟の追加五ヶ条」という古文書を解読します。
ここにはどんな面白いことが記されているでしょうか。
まずはじめに実際の古文書の方を。
殿中御掟の追加五ヶ条
割と長めの文章なのでAとBに分けた。
原文
釈文
条々
一、諸国へ以 御内書被仰出子細
有之者、信長ニ被 仰聞、書状を
可添申事、
一、御下知之儀、皆以有御棄破、其上
被成御思案、可被相定事、
一、奉対 公儀、忠節之輩ニ雖
被加御恩賞 御褒美度候、領中
等於無之ハ、信長分領之内を
以ても、上意次第ニ可申付事、
一、天下之儀、何様ニも信長ニ被任
置之上者、不寄誰々、不及得
上意、分別次第可為成敗之事、
一、天下御静謐之条、禁中の儀、
毎事不可有御油断之事、
已上、
永禄十参
正月廿三日 (信長朱印)
日乗上人
明智十兵衛尉殿
原文に釈文を記してみた
書き下し文
一、諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、
信長に仰せ聞けられ、書状を添え申すべき事。
一、御下知の儀、皆以て御破棄あり。
その上御思案なされ、相定められる事。
一、公儀に対し奉り、忠節の輩に、
御恩賞、御褒美を加えられたく候といえども、
領中等之なきに於いては、信長分領の内を以ても、
上意次第に申し付くべきの事。
一、天下の儀、何様にも信長に任せ置かるるの上は、
誰々によらず、上意を得るに及ばず、
分別次第に成敗を成すべきの事。
一、天下御静謐の条、禁中の儀、
毎時御油断あるべからざるの事。
以上
永禄十三
正月二十三日 (信長朱印)
日乗上人
明智十兵衛尉殿
現代語訳
1.諸国へ御内書で仰せ出されたいことあれば、信長に仰せになれば、私の添状も加えて出されること。
2.これまであなた様がお出しになった御下知は全て撤回するので、その上で御考えになって定められること。
3.幕府に忠節を尽くした者たちに御恩賞や御褒美を与えたく思った時、将軍様に与えるべき領地がなければ、信長の領地からでも上位次第に与えること。
4.天下のまつりごとについては、何につけても信長に任せ置かれたからには、誰であっても上意を伺わず、私の考えで成敗すること。
5.世の中が平穏になった上は、禁裏での儀式等は将軍様御自らがぬかりなく行われること。
以上。
永禄13年(1570)
1月23日 (信長朱印)
朝山日乗上人
明智光秀殿
この書状の時代背景
足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長。
大軍をもって佐々木六角氏を壊滅させ、畿内の三好三人衆らを阿波へと追い払い、その武名を天下に轟かせた。
足利義昭は信長の後援により第十五代征夷大将軍に就任し、信長の事を「わが父」と慕って最大限の賛辞を送る。
翌年には信長が二条城を築いて足利義昭に献上し、二人の関係は極めて良好だった。
しかし、その年の秋。
信長が伊勢の国司・北畠具教を降伏させ、そのまま上洛して足利義昭に謁見する。
そこで何かあったらしく、信長は憤慨して岐阜へと帰ってしまった。
この信長突然の帰国は多くの人々を驚かせ、不安に陥れたらしい。
多門院日記にも突然の帰国を
上意トセリアイテ下リ了ト
多門院日記
と記している。
年が明けて永禄13年(1570)になっても信長は一向に上洛しようとしなかった。
この異常事態に最も敏感だったのが公家衆である。
彼らは信長の武威なくして京都は守れないと分かっていた。
将軍という最高権力者が京にいたとしても、もはや信長無しでは政治が立ち行かぬということを如実に物語っている。
公家たちは連日のように岐阜へと下向し、何とかして将軍と信長との関係を取り持とうとした。
そこで登場するのが今回の書状である。
実はこの「殿中御掟」の第一段目は昨年の一月に16ヶ条。
その2日後に7ヶ条追加となって、今回の追加5ヶ条ときたのだ。
「殿中御掟」の第一段については過去に記事にしたことがあるので、興味があれば是非。
関連記事:【古文書講座】信長が出した書状から読める足利義昭との関係性(殿中御掟)
この書状から見えるもの
当然これは将軍・足利義昭にとって許容できるものではなかったであろう。
しかしながら、第一弾と第二段の殿中御掟は、足利義昭の政治力の無さと御内書の乱発からくる混乱から定められた経緯がある。
(※御内書とは室町幕府が発給した私文書の書状で、公的な効力を持った書状のこと)
しかし、第三段はこれまでよりもはるかに厳しく将軍の権力を縛るものだった。
恐らくいくら諫めても、将軍・足利義昭が勝手に諸国へ御内書を乱発するのを止めなかったのだろう。
「天下の事は信長に一任されたのだから」とあるので、かなり強い意味を持つ文言である。
結果的には足利義昭が折れる形で書状に袖判(そではん)を捺して承認した。
しかし、少なくとも一条目と二条目は足利義昭が遵守した形跡はない。
それどころか、その後も密かに御内書を乱発し、信長包囲網を築いて信長を苦しめるのである。
宛名が足利義昭ではなく日乗上人と明智光秀となっている理由は
朝山日乗は御所修理などに尽力し、朝廷と距離が近い人物。
名前の通り僧侶である。
この当時来日し、キリスト教の布教に努めた宣教師ルイス・フロイスは彼の事を毛嫌いしている。
明智光秀は信長に仕える一方で幕府奉公衆でもあった。
幕臣として細川藤孝らとともに足利義昭に仕えていたが、信長にその才を気に入られて織田家家臣となった。
両者は朝廷と幕府、織田政権と中間的な立場から宛所となったのであろう。
この書状は明治の終わりの頃まで世間に知られていなかった
実はこの書状は明治43年(1910)まで存在を知られていなかった。
理由は不明だが、明治新政府も他国の政府と同様に、歴史を最大限活用しようとした。
朝廷に対して反旗を翻した平将門や足利尊氏を悪いやつだと教える一方、朝廷の為に命をささげて戦った和気清麻呂や楠木正成を神格化させた。
このように、新政府は歴史上の人物で善悪をはっきり分けようとする風潮があったのだ。
もしかすると明治政府が”織田信長”という人物について、いい人なのか悪い人なのか決めかねていたのかもしれない。
今回もご覧いただきありがとうございます。
この時期に関連する織田信長の年表はこちらです。