今回は光秀の丹波平定が始まる以前の丹波情勢を記事にしています。
時の権力者に翻弄されながらも逞しく生きた丹波の国人衆たち。
生の史料6点から引用し、その時期に誰が丹波国で力を持ったのかを簡潔にまとめました。
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戦国時代以前の丹波国
この地は京都のすぐ隣の国ということもあり、足利将軍家の直臣の国人、丹波の守護大名を支える国人、また独立色の強い国人らが割拠した面白い土地です。
光秀の討伐を受ける前の丹波国は、巨大な権力に飲み込まれながらも逞しく生き、各家が生き残りをかけて和戦を繰り返していました。
丹波国簡略図
丹波守護職の細川氏と足利将軍家の下で
南北朝時代が終わり、将軍足利義満の治世が始まると、丹波国に大きな影響力を持っていた山名氏の支配が衰えます。
かわりに、足利義満と関係の深い細川氏の本家筋にあたる京兆家の細川頼元が丹波守護職に補任されました。
その細川京兆家による丹波支配が確立する過程で、小笠原氏、香西氏、内藤氏、そして細川一族が守護代として力を振るいます。
一方、旧守護家だった仁木氏は伊賀守護となりましたが、その傍流は引き続き丹波国で所領を持ち続け、幕府近習衆として将軍の直臣となりました。
久下氏(くげうじ)氏もまた将軍側近の奉公衆として、さらに中澤氏(長澤氏)は幕府奉行人として出仕しました。
こうした複雑な組織関係でも、比較的丹波国は平穏な時代が続きました。
しかし、時代の荒波が容赦なくこの国を呑み込んでいきます。
応仁・文明の乱と丹波国
嘉吉元年(1441)。
8代将軍足利義教が殺害される事件が起きました。(嘉吉の乱)
隣国では山名氏と赤松氏の対立が激化し、次第に丹波の情勢も不安定なものとなります。
丹波国でも国人の荻野氏が荘園を横領するなど、幕府の権威が目に見えて衰えていきました。
こうした混乱が、応仁・文明の乱という大きな戦乱へと続く時代の歩みを早めてしまいます。
応仁の乱図屏風(一部)
この戦いの主戦場は京都でしたが、西軍総大将の山名宗全の本拠地が但馬国であったため、京都へ進軍するには当然丹波国を通ります。
丹波は山深い地であるため、ここでも大きな戦いが起きました。
この時、丹波勢を率いて山名氏と戦ったのが守護代内藤氏でした。
応仁2年(1468)9月の戦いでは、同じ丹波国人の蘆田、久下、長澤、荻野、本庄氏らを率いて細川方として奮戦しています。
延徳の丹波国一揆と細川政元
東軍総帥、細川勝元が病没すると、その跡を政元が継ぎました。
応仁・文明の乱が終わり、細川政元が積極的に政治を取り仕切る時代がきます。
このとき政元は、丹波守護代の役職を自身と関係の深い上原氏に交代させました。
細川政元肖像(龍安寺所蔵)
しかし、この上原氏と丹波国人衆の溝が深まり、延徳元年(1489)に丹波国で大規模な一揆が起きました。(延徳の丹波国一揆)
この時、荻野氏が位田城、須智氏が須智城に立て籠もり、それぞれ頑強に抵抗しましたが、細川政元に敗れて鎮圧されます。
さらに明応2年(1493)。
細川政元は日野富子らと手を組み、10代将軍足利義材(義稙)を追放し、足利義澄を将軍職に据えました。(明応の政変)
同じ三管領の畠山政長も自害させたため、世は大きく動揺しました。
明応の政変
明応8年(1499)。
北陸から足利義材が挙兵した際、河内の畠山尚順、さらに丹波国から仁木氏らが呼応して細川政元を挟み撃ちにします。
しかし、政元は丹波国人衆の波多野氏、赤沢氏、波々伯部氏らを味方につけてこの難局をしのぎました。
関連記事:戦国の幕開け 名門細川家のややこしい権力争いを和歌の面から見る(1)
両細川の乱と波多野三兄弟
永正4年(1507)。
権勢をほしいままにしていた京兆家当主、細川政元が暗殺される事件が起きました。(永正の錯乱)
両細川の乱時代
ほどなくして細川家は高国陣営と澄元陣営が二つに分かれて相争うようになります。
この時、波多野氏ら丹波国人衆の多くは細川高国に味方し、永正5年(1508)に細川澄元を破ります。
この時代、もっとも丹波国で大きな発言権を得ていたのが波多野氏だったでしょう。
当主の波多野稙通(元清)は知勇英邁な名将として武名を轟かせ、弟の香西元盛と柳本賢治はともに細川高国の側近として重用されていました。
しかし、大永6年(1526)7月。
細川高国は香西元盛を上意討ちするという事件が起き、波多野稙通・柳本賢治らが中心となって反旗を翻します。
この時、家督争いに敗れて失意のうちに没した細川澄元の子、晴元が阿波国より挙兵します。
細川高国は政権を維持できずに京都から敗走。
波多野氏は一族の不和に悩まされながらも、勢力を多紀郡まで伸ばしていきました。
この大永6年(1526)から天文5年(1536)の10年間は、日本でもっとも混迷を極めた時代といって良いでしょう。
この間に細川高国は捕らえられて自刃。
その後、細川晴元陣営でも内部分裂が起きて、家宰の三好元長も切腹。
さらに、将軍家と河内畠山氏、一向一揆、法華一揆まで招いて、さまざまな勢力が入り乱れて争う時代を迎えました。
丹波国でも波多野氏の当主となった秀忠は船井郡をめぐって内藤国貞と争うようになります。
細川晴元を味方につけた波多野秀忠は、内藤氏に勝利し、事実上の丹波守護として認識されるようになります。
公家の山科言継は天文13年(1544)6月13日の頁に「細川京兆被官丹波守護波多野備前守」と記しています。『言継卿記』
『言継卿記』第一より抜粋
三好長慶の台頭と丹波を席巻した内藤氏
快進撃を続けていた波多野氏でしたが、ここで風向きが変わります。
その原因が、細川晴元の家老三好長慶の台頭でした。
堺幕府を支持するか、現役の足利幕府を支持するかなどの路線をめぐって両者が対立し、天文18年(1549)、江口の戦いで三好長慶は細川晴元を破ります。
すると、その影響は丹波にも及び、細川晴元と手を結んでいた波多野元秀は苦境に立たされました。
逆に、三好長慶と手を結んだ内藤国貞が勢力を回復する兆しを見せます。
天文22年(1553)。
波多野元秀らはそれでも果敢に三好氏・内藤氏と戦い、内藤国貞を討ち取る大戦果を挙げます。
その直後の時期と思われる史料がこちらです。
内藤跡目の事。
備前国貞、松永甚介と契約といえども、長頼分別を以て、息千勝相続の上は、先々の如く内藤と相談じ、忠節肝要に候。
猶、三好筑前守に申さるべく候。
謹言
三月二十日 氏綱(花押)
桐村豊前守殿
この備前国貞とは波多野氏との戦いで討死した当時の内藤家当主、国貞のことです。
息千勝は国貞娘と松永長頼の間にできた子で、のちに内藤貞勝と名乗った人物。
松永甚介とは三好長慶の側近として名高い松永久秀の弟で、松永長頼という名で知られている人物です。
氏綱は細川氏綱のことで、三好長慶の最大のスポンサーともいうべき人物でしょうか。
これは細川氏綱が、丹波天田郡の国人領主、桐村豊前守に宛てた書状です。
どうやら以前から松永長頼を内藤氏の養子に迎え入れ、家督を相続させることが決まっていたようですが、長頼は分別をもって自らの息子である千勝(内藤貞勝)に家督を継がせようとした。
内藤氏の後継者に関してはこのように決定したので、今後も内藤氏とよく相談し、忠節を尽くすことが肝要であると書いている文書ですね。
しかし、どういう経緯があったのか、のちに松永長頼が「内藤宗勝」と名乗っていることから、彼自身が内藤氏の跡目を継いでいます。
内藤宗勝は誠実で実直な人柄として知られ、武勇にも秀でていました。
丹波の諸将も宗勝に味方をする者が多く、日に日に内藤家の名声が高まっていきます。
三好長慶の支援を受けた内藤宗勝の勢いは凄まじく、丹波をはじめ畿内近国にも兵を出しました。
対する波多野氏の当主は元秀でしたが、親族の秀親らが宗勝に味方し、波多野氏の本拠地である八上城を奪うなど、丹波一の勢力へと急成長しました。
一説には氷上郡の国人、荻野氏の拠点である黒井城も攻め奪ったとあるほどです。
丹波国簡略勢力図
荻野悪右衛門(赤井直正)の智勇
さて、時期は少し前後しますが、氷上郡の国人領主、赤井氏と荻野氏にも躍進の機会が訪れます。
荻野悪右衛門(赤井直正)の登場です。
彼は赤井氏当主、赤井時家の次男として享禄2年(1529)に生まれます。
赤井家の跡目は兄の家清がのちに継ぎますが、直正は元服前に荻野氏へ養子として送り込まれています。
その時期のものと思われる史料がこちらです。
わざわざ啓せしめ候。
仍って才丸の事、其方へ是をまいらせ置き候由、伊予守殿より承り候間、其方御同名中へ使者を以て尋ね申す処、尤も然るべし思し召しの由の御返事に候間、其方へ参り置き候。
然る処、只今御違変有るべき由の風聞候、雑説たるべき候へども、若し事実に於いては力に及ばず候の条、涯分(=外聞?)申し分けるべく候。
然らば其方御同名中御覚悟の通り、つぶさに示し給い、其の御覚悟をならせられるべく候。
然し最前の筋目、相違無く御昵懇本望たるべく候。
恐々謹言
八月五日 時家(花押)
荻野出雲守殿
荻野筑後守殿
荻野対馬守殿
荻野氏宛八月五日付赤井時家書状『荻野家文書』
才丸とあるのが荻野直正の幼名にあたります。
つまりこれは、直正が荻野家へ養子入りし、荻野家の当主となることを荻野一族たちに確認させる文書です。
荻野有力三氏に対し
「御違変有るべき由の風聞候、雑説たるべき候へども」、「其の御覚悟をならせられるべく候」
と不平や不満もあるようだがと前置きしたうえで、脅しともとれるような文言で凄んで見せているのが興味深いですね。
この文書の通り、以後、赤井直正が荻野家に養子入りして当主となります。
直正は、天文23年(1554)に外祖父にあたる荻野秋清を討ち取り、黒井城を奪ってそこを本拠にします。
この時の傍若無人な振る舞いでついた仇名が「悪右衛門」であるとする異説が生まれたほど、周辺への影響が大きかったのでしょうか。
こうして後顧の憂いを断った赤井氏と荻野氏は一心同体となり、氷上郡で一大勢力となりました。
特に荻野直正は知勇優れた名将に成長し、いつしか「丹波の赤鬼」と恐れられました。
内藤宗勝(久秀弟)と荻野直正の最終決戦
先に述べた通り、内藤氏の当主となった宗勝の勢いは凄まじく、丹波を平定するほどの勢いがありました。
弘治元年(1555)。
内藤宗勝が支援した芦田・足立一族と氷上郡統一に野心を燃やす赤井・荻野連合軍が丹波の香良において合戦を繰り広げます。
この戦いは非常に激しいものとなり、丸一日におよぶ戦闘が続いた末、赤井・荻野勢が勝利しました。
しかし、この戦いで赤井家清、弟荻野直正が負傷。
家清はこの戦いの傷が原因で2年後に死亡します。
弘治元年(1555)丹波周辺関係図
永禄4年(1561)頃から内藤宗勝を取り巻く情勢に変化が生じ始めます。
同年6月に若狭武田義統を攻めた際、越前の朝倉義景の援軍に敗れて退却を余儀なくされました。
翌永禄5年(1562)、河内で起きた教興寺の戦いでは、宗勝も丹波衆を率いて出陣し、なんとか勝利を収めるものの、相次ぐ一族の死により三好家の土台は揺らぎ始めていました。
そうした不安定な情勢のためか、断続的に続いていた丹波国人衆らの蜂起にも手が回らなくなります。
この時期のものと思われる史料がこちらです(三好長慶の項)
関連記事:【古文書解読初級】 翻刻を読んでみよう②(足利義昭・三好長慶・浅井長政編)
永禄7年(1564)7月。
権力者三好長慶が病死したことにより、畿内は大きく動揺しました。
こうした畿内動乱の最中、またしても大きな事件が発生します。
それが翌8年(1565)に起きた永禄の変です。
この事件により時の将軍、足利義輝が殺害されます。
そしてこの事件の首謀者の一人が、内藤宗勝の甥にあたる松永久通でした。
この事件から2か月後の8月2日。(年次については諸説あり)
内藤宗勝は自ら手勢を率いて氷上郡の実力者、荻野直正を攻めます。
この丹波の名将2人による最終決戦の詳細は定かではありませんが、荻野直正が内藤宗勝を含む260余人を討ち取るという大戦果を挙げます。
この宗勝の討死によって、丹波の情勢は大きく変わりました。
荻野・赤井氏の力が強くなる一方、八木城を根城とする内藤氏の丹波における影響力は大きく衰える形となりました。
内藤氏に屈服していた船井郡の波多野氏、須智氏らが荻野直正方に転じます。
力を取り戻した波多野元秀は永禄9年(1566)2月、本貫地である八上城を攻め落とすことに成功し、城主の松永孫六を逐いました。
これにより丹波国における三好・松永勢力は撤退を余儀なくされ、影響力を失う結果となりました。
足利義昭と織田信長の二頭体制の中で
丹波国ではこのような経緯を経て荻野(赤井)直正が抜きんでた存在となりました。
なお、先の弘治元年(1555)の戦いの傷が元で当主を失った赤井氏は、家清の子である忠家が跡を継ぎました。
忠家がまだ幼かったため、叔父である荻野直正が後見役を務めます。
このことから荻野氏と赤井氏は、現在では混同されがちな家と言えるかもしれません。
永禄11年(1568)秋。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛します。
京都や摂津国などでは、それに抵抗する阿波三好方が織田信長と戦いますが、丹波勢がこれに加わった様子が確認できません。
成り行きを見守って中立を守っていたのかもしれません。
この戦いで織田氏が勝利し、足利義昭・織田信長による二頭体制が成り立つと、荻野氏ら丹波の国人衆は軒並みそれに従ったと考えられています。
それを示す史料がこちらです。
丹波国奥三郡之儀、当知行の筋目を以って、御下知を帯する之条、其の旨に任せ、前々の如く全く領知し、相違有るべからざるの状件の如し。
永禄十三
三月日 信長(朱印)
蘆田五郎殿
丹波蘆田忠家宛永禄十三年三月付織田信長朱印状写『寛永諸家系図伝 三十』
この書状は永禄13年(1570)3月に、信長と足利義昭が氷上三郡を支配する赤井忠家(先述した赤井時家の孫、荻野直正の甥)に対し、全ての所領を安堵した旨を伝えたものです。
宛名が蘆田姓なのは、先祖が丹波氷上郡の蘆田に住んでいて、同地を名字にしていた時期があったからです。
しかし、丹波国人の中には土地を押領して信長の裁定を受けた者もいたようです。
禁裏御料所山国庄之事、数年宇津右近大夫横領仕り候を、この度信長が糾明を遂げ、宇津に違乱を停止すべき之由、申し付け、両御代官へ信長の朱印を以って申し渡し候。
前々の如く御直務として仰せつけらるべく之由、御収納相違有るべからず候。
宇津方へも堅く申し遣わし候。
これらの旨、御披露有るべく候。
恐々謹言
(永禄12)四月十六日
木下藤吉郎
秀吉(花押)
丹羽五郎左衛門尉
長秀(花押)
中川八郎右衛門尉
重政(花押)
明智十兵衛尉
光秀(花押)
立入左京亮殿
立入宗継宛四月十六日付木下秀吉等連署披露状『立入宗継文書』
宛名の立入左京亮とは、立入宗継という宮廷の金庫係を務めた金融業者です。
この文書は、宇津右近大夫(頼重)という宇津城を根城とする丹波国人が、土地を横領したことに対する足利・織田政権の裁定の書状です。
京に上洛し、様々な問題に取り組んでいた足利・織田政権でしたが、ここで逆風が吹き荒れます。
それが元亀元年(1570)冬に起きた志賀の陣です。
志賀の陣図
これは三好三人衆ら阿波勢が、摂津周辺での影響力を取り戻し、将軍を排斥せんと兵を起こした事件です。
織田信長は軍勢を率いて阿波勢を野田・福島砦に追い詰めますが、越前の朝倉氏・近江の浅井氏・そして、石山本願寺氏らが一斉に信長に攻めかかりました。
野田・福島の戦い
関連記事:【信長包囲網成立】野田・福島の戦いを図で解説 前編
関連記事:【信長包囲網成立】野田・福島の戦いを図で解説 後編
この報せを聞いた信長はただちに京へ退却し、比叡山麓の志賀や坂本で3か月ほど身動きがとれなくなるという事態に陥ったのです。
この時のものと思われる丹波国人の書状がこちらです。
委曲示し承り候。
祝着に候。
殊に太刀、馬給わり懇慮に候。
年内は漸く余日も無く候条、爰元見舞いに及ばず候。
来春早々申すべく候。
恐々謹言
(推定元亀元年)十一月二十四日 信長(花押)
波多野右衛門大夫殿
丹波波多野右衛門大夫宛十一月二十四日付織田信長書状『名古屋市博物館所蔵』
波多野右衛門大夫(うえもんのたゆう)とは八上城主の波多野秀治のことです。
前後のやりとりで何があったのかわからないため、何に対して委曲を承り、来春に何が話し合われたのかはわかりません。
ただ一つ言えることは、このような状況の中、波多野氏が信長へ陣中を見舞ったということです。
信長の動勢に探りを入れるために使者を遣わしたのかもしれませんが、少なくともこの頃には敵意がなかったと見て良いでしょう。
この戦いでも波多野氏ら丹波勢は兵を動かした様子がありません。
すぐ近くの摂津池田城が阿波勢に味方するなど、身動きがとれなかったのかもしれません。
では、なぜ丹波が明智光秀の討伐に遭ったのか。
その原因が織田信長と将軍足利義昭の反目です。
まとめ
ご覧いただきありがとうございました。
京都から近い重要な土地だけに、やはり丹波は戦乱の絶えない地域でしたね。
はじめは小笠原氏、香西氏、内藤氏、そして細川一族が力を振るいましたが、細川政元の時代に上原氏が丹波守護代として重用されます。
しかし、それも長くは続きません。
今度は細川高国に近い波多野氏が力を伸ばすものの、また時代が代わり内藤氏の時代へ。
やがて内藤氏の力が衰えると、荻野・赤井氏が力をつけ、その援助を受けた波多野氏が復権を果たしました。
まさに栄枯盛衰。
驕れるものは久しからずですね(^-^;
今回の記事はここまでとさせていただきます。
次回はいよいよ明智光秀の丹波攻め編です。
お楽しみに!
参考文献:
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
丹波の森公苑(2014)『平成25年度講座「丹波学」講義録』(公財)兵庫丹波の森協会文化振興部
白浜睦男(1999)『地図で訪ねる歴史の舞台-日本-』帝国書院
児玉幸多(2013)『日本史年表・地図』吉川弘文館
など