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こんばんは~。
細川家の内紛を和歌から見るシリーズの最終回です。
細川晴元全盛期から三好家の没落を経て細川忠興が家名を残すところまで一気にいきます。
- 戦国時代中期からの畿内の情勢をかんたんに知りたい
- 戦国中期の武士の和歌が見たい
- 細川家のごたごたした内紛を簡単に知りたい
- 短歌が好き
- 三好長慶と細川晴元・三好政長のバトルが好き
- 三好長治が狂おしいほど好き
- 細川幽斎・三斎の和歌を見たい
晴元家臣・三好長慶の活躍
三好元長の遺子・千熊丸は幼少ながら使える男であった。
天文2年(1533)に一向に蜂起が収まらない一向一揆勢と和睦の斡旋を皮切りに、摂津越水城を奪回して進出の足掛かりを作ったのも彼である。
千熊丸は元服し、「孫次郎利長」と名乗った。
のちの三好長慶である。
(便宜上、以下の記述は長慶で統一する)
細川晴元の躍進は三好長慶の活躍なしでは語れないであろう。
天文11年(1542)に太平寺の戦いで造反した木沢長政を討ち取り、翌12年には亡き細川高国の養子・細川氏綱と戦い、同14年には山城・丹波国(京都府)の反乱鎮圧など、数多くの功を立てている。
その過程で長慶の細川家中での発言力が増していき、かつて父を滅ぼした同族の三好政長(宗三)との不協和音が増していった。
天文16年(1547年)7月21日に晴元は三好長慶、三好政長らを従えて摂津国で応仁の乱以来の大激戦ともいわれる舎利寺の戦いにおいて細川氏綱・遊佐長教軍に勝利。
一方、細川氏綱側として晴元と敵対し、京から逃れていた将軍・足利義晴は、亡命先の近江国坂本で弱冠11歳の嫡子・菊童丸を元服させて将軍職を譲った。
室町幕府第13代将軍・足利義輝である。
晴元政権の凋落
舎利寺の戦いで勝利を収めた細川晴元であったが、ここにきてかねてより険悪な関係であった三好長慶と三好政長の対立が表面化する。
晴元が政長に隠居を申付けたにも関わらず、なおも晴元の腹心としての地位を保ち続けたために長慶が反発したのだ。
加えて摂津国人衆の池田信正を切腹させたことにより、それに反対する長慶と政長との間にもはや修復できないほどの亀裂が入った。
晴元は長慶から政長の討伐の認可を迫られるが、これを拒絶。
ついに長慶は主君・晴元を見限り、細川氏綱陣営に鞍替えしてしまった。
三好長慶の勇躍 江口城の戦い
天文17年(1548)10月。
挙兵した三好長慶は摂津榎並城を包囲。
晴元は南近江の六角定頼と将軍・足利義藤(義輝)を味方につけていたが、摂津国の国人衆の多くが長慶陣営に属しており劣勢であった。
晴元は摂津の城を転々と戦いつつも戦力を温存し、決戦を避けた。
翌18年5月28日に摂津三宅城に入り、六角定頼の出馬を待った。
6月11日になると三好政長は摂津江口城に入り、長慶陣営の攪乱を画策する。
六角定頼の援軍が来るまでこの城に立て籠もり、持久戦に持ち込む算段であった。
しかし、六角の援軍は一向に来なかった。
同年6月24日。
三好長慶は江口城に総攻撃を仕掛ける。
衆寡敵せず政長は討死。
江口城は陥落し、榎並城を守る政長の嫡男・政勝は瓦林城まで撤退。
細川晴元は三宅城を抜け出して京都へ逃れた。
足利季世記
川舟を留て近江の勢もこず問んともせぬ人を待つかな (三好政長)
(川舟を 留(め)て近江の 勢もこず 問んともせぬ 人を待つかな)
これは討死する少し前、江口城に籠城中の政長が詠んだ歌である。
いくら待てども一向に来ない六角定頼を思って詠んだものであろう。
実は六角軍は6月24日には山城国山崎まで到着する予定だったのである。
もし長慶勢が江口城の攻略にてこずり、25日の正午あたりに六角軍1万を超える手勢が着陣していれば、江口合戦はどうなっていただろうか。
この戦いにより細川京兆家の権威は完全に失墜。
将軍家の足利義晴・義藤(義輝)父子は、またもや京を脱出し流浪する日々を送ることとなった。
勝利した長慶は新たなる主君・細川氏綱を奉じて上洛。
三好長慶の時代の始まりである。
下克上 天下を掴んだ三好長慶の和歌三首
三好長慶は余勢を駆って京へ攻め込み、将軍・足利義藤(義輝)と細川晴元を追い詰めた。
ほどなくして六角家が仲裁に入り和議が成立。
こうして畿内には将軍に足利義輝、管領に細川氏綱、そして実質的に権力を握ったのが三好長慶という奇妙な構造が出来上がったのである。
称名院右府七十賀記
久方の雲の上なる一声や世々にも聞かむ山ほととぎす (三好長慶)
(久方の 雲の上なる 一声や 世々(よよ)にも聞かむ 山ほととぎす)
聞かむの「む」は否定ではなく、助詞の「~だろう」といった意味だろう。
世々(よよ)は何代にもわたってという意味。
山ほととぎすは植物で「山杜鵑草」という花があるが、この句では恐らく植物の方ではなく、動物の方のホトトギスだろう。
植物の方のホトトギスの参考写真はこちら。
動物の方のホトトギスについては以前記事にしたことがあるので、もしよければご覧いただきたい。
関連記事:和歌や俳句でよく詠まれる「ほととぎす」にはどのような意味が隠されているのか
だいたいの意味としては
久しぶりに聞いたホトトギスの声は、今まで誰も聞いた事がないほど素晴らしい鳴き声だった。雲の上からで姿形は見えなかったけれど・・・
といった感じか。
なお、この歌がいつ頃詠まれたのかは不明だ。
一方、実権を奪われた細川晴元も諦めてはいなかった。
当時2歳の嫡男・聡明丸を人質にとられたものの、なおも抵抗を続ける。
若狭の守護大名・武田信豊や丹波の国人衆らを味方につけ、さらに将軍・足利義藤(義輝)まで取り込んだ。
(出典不明)
歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし (三好長慶)
(歌連歌(うたれんが) ぬるきものぞと 言うものの 梓弓矢(あずさゆみや)も 取りたるもなし)
歌連歌と連歌は意味が違うらしいが、ここではさほど気にしなくていいだろう。
梓弓とは神事などで用いられる梓の木で作られた弓のことをいうが、これもここでは弓馬の道という程度の意味で捉えるといいだろう。
だいたいの意味としては
歌連歌を嗜む棟梁は文弱だと陰口を叩く者もいるが、そうした者に限って弓馬の道も大したことはないのだ。
といった感じだろう。
しかし、天文22年(1553)3月。
京の都の要害である霊山城を三好軍が攻め落とし、将軍はまたもや近江へ敗走。
松永長頼らの活躍により丹波国(兵庫県)のほとんどが長慶に征服された。
また、この頃に反逆した一族の芥川孫十郎籠る芥川山城を攻め落とし、長慶はここに居城を移す。
京の都にほど近く、西国街道を一望できるこの地こそが政治・軍事の拠点にふさわしいと考えたのだろうか。
細川晴元は再び兵を挙げるが、北白川の戦いで三好長慶は勝利を収める。
この頃になると長慶の権力は絶頂期を迎えた。
長慶の嫡男は足利義輝から「義」の一字を賜り「義長」と名乗る。(のちに義興と改名)
長慶は修理大夫に、義長は筑前守に任官され、幕府の役職もそれぞれ相伴衆、御供衆に任ぜられた。
領土は摂津国をはじめ、山城、丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨を領し、応仁の乱以前から細川家とライバル関係だった河内畠山氏を紀伊へ追放するなど、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
永禄3年(1560)。
長慶は芥川山城を義長(義興)に与えて自らは河内飯盛山城に移転。
次代を見据えた。
眺望集
生駒山まぢかき春の眺さへかぐわふほどの花ざかりかな (三好長慶)
(生駒山 まぢかき春の 眺さへ かぐわふほどの 花ざかりかな)
細川晴元の死
翌4年には細川晴元の最期の抵抗があり、家督を譲ったばかりの次男・細川晴之が討死。
失意の晴元はついに心が折れたのか、長慶と和睦した上で芥川山麓に位置する摂津普門寺城に幽閉。
3年後の永禄6年(1563)3月1日に同地で波乱の生涯を閉じた。
享年50。
細川晴元 (1514~1563)
細川澄元の子。
父が細川高国との争いに敗れ、失意のうちに没したのちに家督を相続。
三好元長の力を借りて父の仇を討つものの、その後の路線を巡って元長と対立。
一向一揆や法華宗を扇動するなどして元長を討つ。
しかし、やがて元長の子・長慶に敗れて権力を失い、仇敵だった足利義晴・義輝父子や六角定頼らと手を結ぶが目的は果たせなかった。
晩年は普門寺城に幽閉される。
彼の死後、細川京兆家がかつての威勢を取り戻すことはなかった。
時期は前後するがこんな歌が遺されている。
武備百人一首
善を勧め悪を懲らしむ国はただ民も豊かに世をや保たむ (細川晴元)
(善を勧め 悪を懲らしむ 国はただ 民も豊かに 世をや保たむ)
天文20年(1551)。
近江国観音寺城で将軍・足利義藤(のちの義輝)を先頭に100名の武人が兵法・戦法・武備等を題に歌会が開かれた。
当時、細川晴元は家臣の三好長慶との権力闘争に敗れて各地を流浪中であった。
これは、この時に細川晴元が詠んだ歌だとされている。
この逸話の出どころは「江源武鑑」という古文書であるが、それぞれの歌に個性があまり感じられないことから、同一人物の作か後世の人の偽作という説もある。
他の晴元の和歌は「戦国の幕開け 名門細川家のややこしい権力争いを和歌の面から見る(2)」にあるので、ご参照いただきたい。
跡見学園短期大学紀要
音もなく香もなく道のいたれるは唯そのままの有明の月 (足利義輝)
(音もなく 香もなく道の いたれるは 唯そのままの 有明の月)
なお、晴元の嫡男の聡明丸は人質として三好長慶の元へと送られたが、彼は殺害されずに養育され、長慶の元で元服。
細川昭元と名乗った。
織田信長の上洛後も三好方として三好三人衆らとともに行動するも、のちに信長に降り、信長の娘・お犬を娶った。
秀吉の世になっても権力の座に返り咲くことはなかったが、子孫は三春藩の家老として家を保った。
三好長慶の死と三好家の没落
絶頂期にあった三好家だが、長慶を武の面で支えた弟の十河一存の急死によって徐々に衰退し始める。
永禄5年(1562)には畠山家との戦いで弟の三好実休が討死。=久米田合戦
その後、河内国で応仁の乱以後最大の激戦ともいわれた教興寺の戦いでは大勝利を収めたものの、一存、実休、三好政成と重鎮を相次いで3人も失う結果となった。
出典不明
草カラス霜又今日ノ日ニ消テ因果ハ爰ニメクリ来ニケリ (三好実休)
(草枯らす 霜又今日の 日に消えて 因果は爰(ここ)に めぐり来にけり)
これは実休が討死の前日に詠んだ和歌だといわれている。
「因果はここにめぐり来にけり」
とは先年に阿波の国主・細川持隆を暗殺したことがあり、実休は生涯気に病んでいたという意味だろうか。
他にも「枯らす」「霜」「消えて」ととんでもなく暗い歌だが、実休がこのいくさで敗死する覚悟があったとは考え難く、後世の創作かもしれない。
翌6年8月には長慶の嫡男・義興が22歳の若さで早逝する。
長慶は亡き十河一存の息子である重存(義継)を養子に迎えて世継ぎとするが、心は完全に折れてしまったのか、心身に異常をきたして病になり、冷静な判断もできないまでになっていた。
長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山に呼び出して謀殺。
松永久秀の讒言によるものだとされているが、真実は不明である。
(出典不明)
因果とは遥か車の輪の外を廻るも遠きみよし野々里 (安宅冬康)
または(因果トハ遙車ノ輪ノ外ニメグルモ遠キ三芳ノ原)
(因果とは 遥か車の 輪の外を 廻るも遠き みよし野々里(さと))
これは久米田合戦の前日に詠んだとされる実休の和歌「草カラス霜又今日ノ日ニ消テ因果ハ爰ニメクリ来ニケリ」の返しとして詠んだものだとされている。
永禄7年(1564)7月4日。
長慶は飯盛山城で病死。
享年43。
集外三十六歌仙
難波がた入江にわたる風冴えて葦の枯葉の音ぞ寒けき (三好長慶)
(難波(なにわ)がた 入江にわたる 風冴えて 葦(あし)の枯葉の 音ぞ寒けき)
いつ頃詠まれたのかは不明なので、これが辞世の句とは限らない。
難波とは当時の大阪のこと。
上の句で情景を詠み、下の句で「葦の枯葉の音ぞ寒けき」とするあたりが上手い。
三好長慶 (1522~1564)
細川家家臣。
父が細川晴元に討たれたのち、和睦して晴元に仕える。
晴元が覇権を握る上で欠かせない存在となるが、政敵であり、父を死に追いやった同族の三好政長と対立。
その後細川氏綱陣営に鞍替えし、 晴元に反旗を翻す。
摂津国江口城の戦いの勝利により主君・細川晴元を追放し、政治の実権を握った。
しかし、嫡男の死や相次ぐ兄弟の死により心身に支障をきたし、若くして病死した。
その後の三好家
このシリーズは応仁の乱直後の1467年から書き始めたので、永禄7年(1564)の時点でおよそ97年の歳月が流れている。
細川京兆家がメインなので、その後の三好家についてはざっくりと歌を紹介するにとどめておき、最後に肥後熊本藩主として細川家を後世に残した細川藤孝・忠興・忠利の家系について書いて終わりにしたい。
長慶の死後、畿内では権力の空白が生まれ、三好三人衆と三好義継・松永久秀が対立した。
その過程で奈良東大寺の大仏殿が戦火によって焼け崩れ、将軍・足利義輝までもが命を落とす結果となった。
辞世
続応仁記
さみだれは露か涙かほととぎす我が名をあげよ雲の上まで (足利義輝)
(さみだれは 露か涙か ほととぎす 我が名をあげよ 雲の上まで)
義輝には二人の弟がいた。
権力争いに利用されることを避けるために二人の弟は幼いころから仏門に入れらたが、そのうちの一人である覚慶(のちの足利義昭)を救い出し、将軍家復興に貢献したのが幕臣の細川藤孝らであった。
いろいろなことがあった末に明智光秀をして織田信長が義昭を奉じて上洛し、三好勢を畿内から追い払う。
やがて将軍を京から追放した信長は敵対する三好残党を追い詰め、土佐の長宗我部元親からも攻められて三好一族は事実上の滅亡を迎えた。
辞世
三好記、西国太平記
三好野の梢の雪と散る花を長き春とや人のいふらん (三好長治)
(三好野の 梢(こずえ)の雪と 散る花を 長き春とや 人のいふらん)
三好長治:三好長慶の弟・義賢(実休)の子。
異父兄である細川真之に攻撃され、阿波国(徳島県)長原の浦で自害。
これはその時の辞世の句。
辞世
三好記、西国太平記
三好野の花の数にはあらねども散るにはもれぬ山桜かな (三好康俊)
(三好野の 花の数には あらねども 散るにはもれぬ 山桜かな)
三好康俊:三好長治の家臣。
長治は大酒遊覧を好み、政・武備に無策であったため、たびたび諫言していた。
しかし、しだいに疎んじられて遠ざけられる。
これは長治自害を聞いて殉死した時の辞世の句。
最後に 細川藤孝・忠興の家系と代表的な句
これまで一つも登場しなかった細川藤孝の家系はどうであろうか。
細川藤孝の家系も、れっきとしたあの細川家の分家である。
ただ、主流の京兆家や典厩家などに比べると、はるかに家格が低い家柄だったようだ。
藤孝の家柄はこうなる。
和泉家となるが、分家の末端ゆえか京兆家に養子を送ったりというようなことはなかったようだ。
藤孝は親友の明智光秀と同様に将軍・足利義昭を見限り、織田信長の家臣となった。
嫡男・忠興も信長に非常にかわいがられ、信長の命により明智光秀の娘・玉を忠興が娶る。
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余談だが、細川家代々の家紋は九曜だと思う方が多いと思うが、これは忠興が用いたのが始まりである。
忠興がまだ若いころ、信長が所持する脇差の柄の九曜が大変気に入ったようで、信長はそれを覚えていて、忠興に家紋にするように命じたのがはじまりのようだ。
本能寺の変後、藤孝は出家して幽斎と号して隠居。
細川父子は明智光秀と縁を切り、豊臣秀吉に臣従した。
東国陣道記
畿かへり美濃のを山の一つ松一つしも身のためならなくに (細川幽斎)
(畿かへり 美濃のを山の 一つ松 一つしも身の ためならなくに)
これは幽斎が小田原城の戦いから帰陣の途中に美濃を通り、昔足利義昭を将軍にするために織田信長に引き合わせようと、岐阜と越前との間を往復奔走した事を思い、これは我が身一つの利害の為では無かったと回想しての歌。
細川藤孝(幽斎) (1534~1610)
足利義輝の臣。
永禄の変後、足利義昭を救い出し、織田信長に助力を求める。
信長の後援を得て義昭が将軍職に任命されるも、徐々に疎まれて信長に臣従する。
その後、明智光秀の与力となり、密接な関係を築くも本能寺の変を機に袂を分かつ。
古今伝授を受けた教養人として有名で、特に和歌の才はずば抜けていた。
田鹿
後水尾院御撰集外三十六歌仙
さすがまた小田もる賊も鹿の音の遠ざかるをば慕ひてや聞く (細川玄旨)
(さすがまた 小田もる賊も 鹿の音の 遠ざかるをば 慕ひてや聞く)
玄旨とは細川藤孝のこと。
衆妙集
ねがはくば家に伝へむ梓弓もと立つばかり道を正して (細川藤孝)
(ねがはくば 家に伝へむ 梓弓(あずさゆみ) もと立つばかり 道を正して)
これは関ケ原の合戦の前哨戦となる宮津城の戦いで幽斎が籠城していたが、後陽成天皇から開城するようにとの勅命を受けた時の句。
同じとき、勅使となった烏丸某へさうしの箱まゐらせし時
衆妙集
もしほ草かきあつめたる跡とめて昔にかへせ和歌のうらなみ (細川幽斎)
(もしほ草 かきあつめたる 跡とめて 昔にかへせ 和歌のうらなみ)
醒睡笑
筒井筒いつつにわれし井戸茶碗とがをばわれのおひにけらしな (細川幽斎)
(筒井筒 いつつ(五つ)にわれし 井戸茶碗 とが(咎)をばわれの おひにけらしな)
ある時、某大名が朝鮮の古陶器の名品井戸茶碗を所持していると聞き、その茶碗を一目見たいと希望したが、大名の小姓がうっかり茶碗を落とし、5つに割れてしまった。
幽斎は気の毒に思い、咄嗟にこの歌を添えて小姓の為に謝した。
一瞬で筒井筒を「五つ」と解した幽斎の発想の柔らかさ、面白さは尊敬に値する。
この茶碗が細川井戸と呼ばれ、現在では国宝になっている品である。
続いて細川忠興の歌
武家百人一首
なびくなよ我が寄せ垣の女郎花男山より風は吹くとも (細川忠興)
(なびくなよ 我が寄せ垣の 女郎花(おみなえし=花)男山より 風は吹くとも)
寄せ垣とは人馬が入るのを防ぐために設けた木製の低い柵。
駒除け。京都を想像される方も多いだろう。
オミナエシとは秋の七草の一種。
男山(おとこやま)とは京の都の南西に位置する石清水八幡宮がある山のこと。(大阪府枚方市)
女郎花に男山とするあたりが遊び心が利いてて面白い。
細川忠興(三斎) (1563~1646)
細川藤孝の嫡男として生まれる。
織田信忠より偏諱を賜り忠興と名乗る。
大和片岡城を攻め落とした際は、大活躍して信長直筆の感状を賜った。
明智光秀の娘・玉を娶るが、本能寺の変の際、光秀と決別。
しかし離縁はしなかった。
豊臣秀吉の死後は徳川家康に近づき、関ケ原の合戦で活躍。
茶や武具、和歌、絵画、能楽、医学と実に多趣味な人物だった。
関連記事:蒲生氏郷と細川忠興 永遠のライバルの人生を比較する
天正16年(1588)4月16日。
後陽成天皇の行幸を終えて盛大な歌会を開き、文武官70人が「詠寄松祝」と題して和歌を競った。
その時の忠興の歌がこちら。
(出典不明)
君が代の長きためしは松に住む鶴の千とせをそへて数へむ (細川忠興)
(君が代の 長きためしは 松に住む 鶴の千とせを そへて数へむ)
次は関ケ原の合戦の恩賞として丹後国宮津(京都府)より豊前国中津(大分県)に国替えの途中、天橋立を見ての句。
戦国時代和歌集
たち別れ松に名残はおしけれど思いきれとの天の橋立 (細川忠興)
(たち別れ 松に名残は おしけれど 思いきれとの 天の橋立)
恩賞として領地が加増になったことはうれしいけれど、長く統治した宮津の天橋立と別れなければならない忠興の心情を見事に現わしている。
忠興の世継ぎは忠利だった。
忠利は徳川家より肥後熊本54万石を加増転封され、熊本藩主として家名を明治にまで残した。
ご覧いただきありがとうございました!
かなりざっくりな説明でしたが、このシリーズはひとまず終了です。
お役に立てましたら光栄です。