こんばんはー!
今回は信長が足利義昭を奉じての上洛戦
「箕作城の戦い」を取り上げます。
この戦は別名「観音寺城の戦い」とも言われています。
時は永禄11年(1568)
信長は既に美濃を攻略し、北伊勢にまで勢力を伸ばしていた。
その間に将軍・足利義輝が三好三人衆と松永久通に暗殺されてしまう。=永禄の変
亡き足利義輝の実弟・足利義昭は各地を放浪し。
打倒三好三人衆と自身の将軍就任を叶えてくれる実力者を探していた。
美濃を制圧した今、信長は機が熟したとばかりに足利義昭を美濃へ招き寄せる。
信長の天下布武への挑戦が今、幕を開ける。
永禄11年のおおよその勢力図(Googleマップより)
信長を取り巻く当時の情勢
信長は一人でも多くの協力者を探していた。
北近江の浅井長政とは既に婚姻同盟を結んでおり、上洛への道の確保は、残すところ南近江の六角氏の所領であった。
六角氏は最初から信長に敵対的だったとよく書かれているが、実はそうではなく、当初は信長に協力的であった。足利義昭が奈良興福寺から脱出した時は、義昭を和田惟政の元に逃したり、義昭を近江矢島に迎え入れたり、信長と浅井長政の同盟にも斡旋している。
しかし、信長の勢力が増大していくにつれ、六角家の外交方針に変化が生じた。また、上方から三好三人衆からの誘いがあり、ついに六角父子は、信長との対決姿勢をあらわにしたのである。
観音寺城周辺の様子(国土地理院より)
六角承禎(義賢)・義治父子の説得に信長自らが赴く
信長が六角父子の説得に向かったのがちょうどその後である。
信長は馬廻と供の者250騎を引き連れて岐阜を立ち、8月7日に浅井家の所領である佐和山城に着いた。
信長は、足利義昭の家臣である和田惟政に、信長の家臣3名を付けて観音寺城へ説得に向かわせた。
しかし、六角父子の意思は固く、使者は追い返されてしまった。信長は浅井長政の饗応を受けながら、7日間の逗留を続けたが、結局は交渉は失敗し、岐阜へと帰った。
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なぜ信長がここまで六角氏を味方につけようと粘ったのかは不明だ。これはあくまで私個人の推測だが、信長は六角定頼が行った経済政策を見習っており、尊敬していたのではなかろうか。時代を先駆ける座の排除や関所の撤廃、商いの流通を重視した商業政策は、専ら先々代の六角定頼が行ったものなのだ。また、六角定頼は弾正忠を名乗っているのだが、信長もまた、この時期から「弾正忠」を名乗っている。六角氏が永禄3年に浅井賢政(長政)と対決した野良田合戦では、敗れてはいるが、実に2万5000の兵を動員している。近江半国を支配しているに過ぎない大名が、ここまでの兵を通常動員できるであろうか。私は、これは六角氏が行った経済政策で軍資金が豊富だった結果、兵を2万5000までかき集めることができたのではなかろうかと考える。事実は分からないが、信長にとっては六角氏は特別な大名家だったのかもしれない。
愛知川は和田山城の目の前に流れる川(国土地理院より)
信長、ついに上洛軍を編成して岐阜城を出陣
9月7日
信長上洛軍の旗の下に美濃、尾張、北伊勢さらに三河の徳川家からも援軍に駆けつけ、総勢10万(6~7万)もの大軍を率いて岐阜城を出陣する。
9月11日には早くも愛知川対岸に陣を張り、野営をした。
織田軍、愛知川対岸に布陣(国土地理院より)
六角氏の戦術
織田信長の軍勢は、まず和田山城に攻撃を仕掛けてくるであろうと読み、和田山に強固な防衛線を張るとともに、上方から三好三人衆の援軍を要請する。
信長もそうすぐには攻めてこないだろうから、機を見て奇襲をしたり、夜襲をしたりして敵を消耗させる。
三好三人衆が到着したら、一機に信長の軍勢を蹴散らすという戦略を立てた。
六角家の戦術(国土地理院より)
織田軍の戦術
さて、織田軍の方はどうだったであろうか。
信長は六角家の小城には目もくれなかった。
9月12日早暁。信長は軍を3手に分ける。
和田山城の押さえとして稲葉一鉄、氏家ト全、安藤守就を。
観音寺城の押さえとして柴田勝家、森可成を。
そして、箕作城攻撃に信長旗本本隊、丹羽長秀、佐久間信盛、滝川一益、木下秀吉を向かわせる。
(備考)浅井家の援軍3000は、兵の消耗を極端に避けたがり、先陣には付きたがらなかったという。
信長のとった戦術(国土地理院より)
箕作城の戦い
戦端はすぐに開かれた。
木下秀吉隊2300が北の口から。丹羽長秀隊3000が東の口から激しく攻め立てた。
しかし、吉田重賢(出雲守)らの守りが固く、急な勾配や大木が覆っていたため、ついに酉の刻頃には兵を退いた。
まさかの夜襲
ここで信長はまさかの夜攻めを命令する。
木下秀吉隊は3尺の松明を数百本用意させ、山に向かって一気に投げつけ、それを合図に一斉に攻めあがった。
初日の攻撃で7時間近くも戦ったので、今日はもう攻めてはこないだろうと油断していた六角勢はたちまち崩壊し、ついに支えきれず夜明け前に落城。
この時200以上の首を織田勢は取ったという。
(夜襲は同士討ちの恐れがあるため、そう頻繁に行われる戦術ではない。しかし、織田信長は夜襲を多用し、戦局を有利に導く天才である。※失敗して討死を多く出すことも多い)
その後の六角軍は
箕作城が危ういと見た和田山城の六角勢は、戦うこともせず、夜のうちに城を捨てて逃亡した。
観音寺に籠城していた六角承禎(義賢)・義治父子も、このまさかの事態に驚き、慌てて夜陰に紛れて城を捨てて甲賀方面へ逃れたのであった。
六角父子は城を捨てて甲賀方面に敗走(国土地理院より)
実は六角家は古来より、危うくなったら城を捨てて甲賀に逃げるのが風習になっていて、甲賀忍者らの力を借りて、再起を図ることがしばしばあったのだ。
六角家臣団が次々と信長に帰順
一夜のうちにあっけなく六角軍が崩壊したことにより、六角家臣団の多くは信長に人質を差し出して降伏する。
しかし唯一六角氏に忠節を尽くし、降伏しない家があった。
日野城に立て籠もる蒲生賢秀である。
柴田勝家と佐久間信盛の軍勢が日野城を取り囲むが、日野城の守りは固かった。
神戸具盛の活躍で蒲生賢秀降伏
ここで先年、信長の家臣に加わった神戸具盛が名乗りを上げた。神戸氏は伊勢の名族で、具盛は蒲生賢秀の妹婿であった。
神戸具盛は単身日野城に乗り込み、必死で蒲生賢秀の説得にあたった。蒲生家は代々六角家の重臣として仕え、たびたび内紛を丸く収めてきた家柄である。そんな六角家を見限れというのは無理難題だったかもしれない。
しかし、具盛の必死の説得が功を奏し、蒲生賢秀は日野城を開城。織田信長の臣下に加わることを約束し、人質として息子の鶴千代を差し出した。
※その後蒲生家は、六角家が勢いを盛り返した時誘いに乗らず、柴田勝家の与力として信長の覇業を支え続けた。
その後の信長の行動
こうして驚くほど早く、そして損害の少ない戦で六角氏を壊滅させた。完全に信長の作戦勝ちであった。
信長は早速足利義昭に戦捷を報告し、出立を促す使者を送った。
22日。義昭を観音寺城下の桑実寺に迎えると、翌日には対岸の三井寺に入り、ついに念願の上洛を果たすのであった。