こんばんはー。
信長公の家臣団の10人目は「池田恒興」。
信長公の乳兄弟にして幼少から仕えた忠義の士です。
しかし、信長は身内をえこ贔屓しない性格だったためか、たくさん知行(領地)を与えられたわけではないようです。
前田利家や佐々成政ら信長親衛隊より出世が早く大身、柴田勝家や丹羽長秀ら家老から見ると小禄。
そんな中途半端な立ち位置にあったのが池田恒興です。
のちに信長が佐久間信盛に送りつけた「十九ヶ条の折檻状」には、武功目覚ましいものとして明智光秀、羽柴秀吉に次いで3番目に恒興が挙げられています。
今回はそんな池田恒興の足跡を辿ります。
はじめに
- 重要な部分は赤太文字で
- それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
- 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーラインで
それでははじめていきます。
池田恒興の生涯
天文5年(1536)-天正12年(1584)4月9日
仮名・幼名・官途名・受領名
勝三郎、経興(諱)、勝入、紀伊守?(嫡男・元助も紀伊守なので真偽は不明)
家族・一族
父:池田恒利 母:養徳院
兄弟:不詳
妻:善応院(荒尾善次娘)
子:元助、照政(輝政)、長吉、長政、せん(森長可室のちに中村一氏室)、若政所(豊臣秀次室)、天球院(山崎家盛室)、娘(浅野幸長室)、娘(織田勝長室)
養女:七条(飯尾敏成室のちに下間頼龍室)
信長の乳兄弟として 最高のヤンキー仲間として
摂津池田氏と同族だとする説もあるようだが、恐らくはそうではなく、尾張出身だと思われる。
信長の2歳年下の恒興は、信長の乳兄弟として有名である。
信長が赤ん坊の頃は、乳母の乳を噛み破るという超問題児だったようだ。
いくら乳母を代えても乳を噛み破っていたようだが、恒興の母が乳母になると、不思議とその悪癖が治ったと伝わる。
恒興の母はその後織田信秀の側室となった。
そうした環境から、恒興は信長とともに育ったと考えられる。
恐らく信長がうつけと陰口をたたかれ、歌舞いていた時期も、丹羽長秀らとともに信長と行動を共にしていたであろう。
尾張統一戦から美濃攻略までの池田恒興
池田家譜と池田家履歴略記によると、初陣は星崎攻め、次いで萱津の合戦、稲生合戦、浮野の合戦、桶狭間の合戦と従軍したようだが真偽は不明。
良質な史料のみを見ると、
永禄4年(1561)5月23日の軽海合戦で敵将・稲葉又右衛門を佐々成政と二人で討ち取ったとあるのが初見である。(信長公記)
関連記事:十四条・軽海合戦 一日二決戦!まさかのダブルヘッダー
永禄6年(1563)春。
斎藤家と美濃新加納において合戦におよび、先陣の池田恒興隊・坂井政尚隊が敗れ、後陣の柴田勝家隊・森可成隊も防戦に努めるが退却している。(信長公記・総見記)=新加納の戦い
同年12月。池田恒興に円福寺の所領を加増される。瀬戸に制札を下し、新規の課税を免除とある。(池田文書など)
永禄9年(1566)に荒尾谷三千貫の知行を宛て行われ、木田城に移った。(池田家譜)
三千貫の知行ということは立派な一城の主である。
動員兵力は私の推測で700~1000人くらいであろうか。
関連記事:戦国時代の単位について 長さと面積 石高・貫高・お金の関係
信長上洛後から姉川の合戦までの池田恒興
永禄11年(1568)9月の足利義昭を奉じての上洛戦に従軍したと思われるが確証はない。
翌12年(1569)8月。南伊勢の大河内城攻めに従軍。
9月8日。稲葉良通(一鉄)、丹羽長秀とともに夜襲を敢行するが、降雨のために鉄砲が役に立たず、多くの侍が討死し失敗している。(信長公記)
元亀元年(1570)4月。越前朝倉攻めに従軍。
4月25日。森可成を先陣に、柴田勝家、坂井政尚、池田恒興も続き、一気に天筒山城を攻め、その日の申の刻に攻め落とす。
敵の首千三百七十を討ち取る。=手筒山城の戦い
同年6月。姉川の合戦には先陣に坂井政尚、二番手に池田恒興と決戦の大役を任されている。
なお対する浅井長政軍の猛攻を支えきれず蹴散らされ、あわや織田軍総崩れかというところまで追い込まれている。=姉川の合戦
関連記事:【古文書から読み解く】浅井長政討伐に燃える織田信長の決意と意気込み
関連記事:姉川の合戦 前半 元亀の争乱時代が幕を開ける
関連記事:姉川の合戦 後半 合戦の詳細と通説以外の説
犬山城、鵜沼城一帯の領主に
これらの戦いをみると、信長の親衛隊としてではなく、一軍の部将(侍大将)として活躍していることがわかる。
また、同元亀元年(1570)。
これまでの功が報いられてか犬山城および鵜沼城一帯の知行1万貫を宛て行われた。(池田家譜、池田家履歴略記、太閤記)
1万貫ということは1万石という計算になる。
恐らく身内贔屓をしまくる他家の家臣ならば、もっと知行を得ていたであろう。
織田信忠の与力として武田家の抑えに
天正元年(1573)7月。足利義昭籠る宇治槙島城攻めに従軍。(信長公記)
この直後に尾張の支配権を嫡男・織田信忠に渡したことから、池田恒興はその寄騎に組み込まれた。
翌2年(1574)2月。武田軍が東美濃明知城を攻める。
信長は明知城救援に出陣するが、明知城は城内で内応者(裏切り)があらわれ城を明け渡してしまった。
信長は明知城の押さえとして付城を築き、こうのに河尻秀隆、小里に池田恒興を置いて帰城した。(信長公記)
その後5年間の恒興活躍の疑問点
それから約5年間、池田恒興の名が古文書にはほぼ現れない。
恐らく東美濃に在城し、河尻秀隆とともに武田勝頼ににらみを利かせていたのであろう。
池田家が編纂した池田本には天正3年(1575)8月の越前攻め、同4年(1576)5月の大坂天王寺合戦、同5年(1577)2月の紀州雑賀攻めに従軍とあり、先に記した小里在番の記述が逆に見当たらない。
このことから、藩祖である池田恒興の功績を誇張するために故意に編集を加えたのではないかと思われる。
荒木村重謀叛 恒興、元助と輝政を引き連れて摂津攻めへ
天正6年(1578)11月。長篠・設楽原の戦いから3年が過ぎ、武田家の影響力が衰えた時期であろう。
恒興は約5年ぶりに東美濃を離れ、摂津有岡城攻めに従軍。
嫡男・元助、次男・照政(輝政)を連れて倉橋郷、ついで川端砦に在番し、荒木村重籠る有岡城を包囲した。(信長公記)
翌7年(1579)11月に有岡城は陥落したが、荒木村重が花隈城へと逃げ延びたため、恒興は花隈城も包囲。
翌8年(1580)7月2日。ついにこれも落とし、摂津を平定させた。(池田氏家譜集成)
摂津の支配者として大出世
その後恒興は信長より摂津のうちの何郡かを知行として与えられた。(寛永伝など)
当代記などに「摂津一国を拝領」とあるが、事実は恒興が摂津の大半を。
これまで荒木村重の与力であった髙山重友(右近)、中川清秀、安倍二右衛門、塩川長満なども個別に摂津の知行を安堵され、彼らを恒興の家臣としてではなく、あくまで与力で恒興を支えたのではないかと思われる。
恒興は伊丹城を居城とした。
その後大坂の石山本願寺との対決に決着をつけた信長は、佐久間信盛に十九ヶ条の折檻状を送りつけた。
その文書の中に
一、丹波国、日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし。然うして、池田勝三郎小身といひ、程なく花熊申し付け、是れ又、天下の覚えを取る。爰を以て我が心を発し、一廉の働きこれあるべき事。
佐久間信盛 織田家中ナンバー1の知行からの追放 より
とあり、第一に明智光秀、第二に羽柴秀吉の活躍を挙げている。
池田恒興は第三に挙げられ、「小身(小禄)であるにも関わらず、摂津花隈城を落とし、これまた天下の覚え晴れがましい」 なのにおまえ(佐久間信盛)はどうなんだ?といった具合で書かれている。
甲州武田攻め そして中国の毛利攻め
天正10年(1582)2月。信長、ついに甲斐の武田勝頼攻めを決断。
広く畿内から出陣動員令を出し、池田家にもその命が下った。
2月9日付けの信長条書では、二人の息子を出陣させ、恒興自身は摂津の留守居を務めるように命じている。(信長公記)
武田討伐を終え、信長が安土に凱旋した直後の5月。
恒興は中国地方で毛利攻めをしている羽柴秀吉の援軍を命じられる。(信長公記)
ほかに恒興とともに援軍を命じられたのは、明智光秀、細川藤孝であった。
本能寺の変により畿内混乱 池田恒興のとった道は
羽柴の援軍に行く準備をしていた矢先の天正10年(1582)6月2日。
本能寺の変により織田信長、信忠父子が死亡。
突然の明智光秀の謀叛により、畿内は大混乱に陥った。
この時恒興は伊丹城にいたと思われる。
光秀よりの勧誘があったと思われるが、恒興は誘いには乗らなかった。
かといって摂津の諸将を動かそうにも、摂津で与力となっていた武将らは信長の臣下となって日が浅く、誰が敵で誰が味方なのかわからなかったのであろう。
しかし、信長の乳兄弟であり、幼馴染であり、苦楽を共にしてきた恒興ほど信長の敵討ちとしてふさわしい武将もいなかったはずだ。
しかも摂津という地理を考えれば、ずっと居城にいて中国地方へ出陣の準備を進めていたならば、いつでも出陣できたのではないか。
結局備中高松から軍をとって返した羽柴秀吉に合流し、明智光秀と戦った。
山崎の合戦と清須会議
天正10年(1582)6月13日の山崎の合戦では、恒興は右翼部隊の主力として勝利に貢献した。
その後すぐに秀吉、織田信孝、丹羽長秀らとともに入京する。(安養寺文書)
同年6月27日に行われた尾張の清須会議においては羽柴秀吉と柴田勝家が真っ向から対立。
池田恒興は丹羽長秀とともに終始秀吉の肩を持った。
その結果、ほぼ全てが秀吉の望み通りとなったのである。
さて、なぜ所領も経歴も見劣りする池田恒興が、織田家の宿老会議である清州会議に参加できたのであろうか。
その理由を、私は滝川一益の代わりとしてではないかと考える。
一益も織田信長の宿老的な立場で活躍し、上野国(群馬県)にいて東国の平定を任されていた。
しかし、その地理的遠さ、北条家による攻撃、東国国人衆らの動揺があり、清須会議に参加できなかった。
恒興は信長の乳兄弟として準一門衆的な立ち位置で、一番の信長古参の武将であったことから、発言権を得たと推察する。
その結果、所領の再配分で池田恒興は大坂、尼崎、兵庫12万石を得た。
嫡男・元助は伊丹に、尼崎に次男・照政(輝政)、恒興自身は大坂に入ったという。(池田家譜)
羽柴秀吉に接近する池田恒興
天正10年(1582)10月付で恒興は摂津塚口神家に禁制を掲げているが、これと同時期に秀吉もまた同所に禁制を発している。(興正寺文書)
恒興の支配地に秀吉が口出ししているという形である。
信長の葬儀も秀吉は最大限に自身の権力を誇示する場とした。
しかしながら恒興は、秀吉を糾弾するどころか、秀吉の協力者として全力を尽くす道を選んでいる。
同年10月28日。京都六条本圀寺で羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興が会談を行い天下について話し合った。(蓮成院記録)
恐らく柴田勝家、織田信孝、滝川一益への対処を談合し、のちの合戦へ協力を呼びかけたのであろう。
賤ケ岳の合戦と池田恒興
翌天正11年(1583)4月の賤ケ岳の合戦には恒興は参加していない。
だが、戦後の5月25日には織田信孝の所領であった美濃の大部分を与えられ、大垣城主となっているから、秀吉に協力していたのは間違いないであろう。
岐阜城に嫡男・元助が入り、摂津のうちの2郡は引き続き池田家の所領として安堵された。(武家事紀、寛永伝)
余談ながら、賤ケ岳の合戦中か、あるいはその直後か。
恒興は秀吉から労いの書状を受け取っているのだが、そこには「骨折」という記述があって、非常に短い事務的な文言のみで終わっている。
「骨折」とは、「ご苦労であった」と非常に上から目線な、主君から配下に向けて用いる言葉であった。
この時の恒興の心中はどのようなものであっただろうか。
小牧長久手の合戦で戦死を遂げる
翌天正12年(1584)3月。秀吉と織田信雄が対立する中、恒興は秀吉に味方する。
尾張へ出陣し、かつて自身が城主を務めていた犬山城を攻略。
4月6日。家康の留守を狙って三河へ向けて進軍し、9日。岩崎城を落とす。
しかし同日。長久手において家康軍の攻撃を受けて、嫡男・元助とともに討死した。
享年49歳。
池田家のその後
次男・照政(輝政)もこの戦いに出陣していたが、彼はなんとか逃げ延びた。
恒興の死により完全に秀吉との上下関係がはっきりとしたが、輝政は秀吉に忠節を尽くして豊臣姓まで与えられている。
その後家康が関東に転封され、三河四郡15万2000石を加増されて吉田城主となった。
文禄3年(1594)秀吉の仲介で家康の娘・督姫を娶る。
慶長3年(1598)8月。秀吉が没すると加藤清正や福島正則らの武断派と行動を共にし、石田三成と対立。
関ケ原の戦いでは東軍の主力として活躍し、戦後、播磨姫路52万石へ大加増され、初代姫路藩主となった。
今日存在する国宝姫路城の基盤は、この池田輝政が築いたものである。
また、輝政の次男・忠継は備前岡山28万石の藩主に、三男忠雄は淡路洲本6万石の藩主に、弟の長吉は因幡鳥取6万石の藩主にそれぞれなり、合計92万石にも上った。
池田家は明治維新に至るまで存続し、大いに繁栄した。