こんばんはー。
今回は足利義昭が吉川元春に宛てた御内書(ごないしょ)の解読をします。
まだ毛利元就が存命中の時代の話です。
この古文書から何が見えるのか楽しみですね!
今回もいつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳、さらに当時の時代背景も加えてご紹介します。
- 足利義昭の書状が見たい
- 生の古文書が見たい
- 殿中御掟の伏線を知りたい
- 古文書がめっちゃ好き
将軍・足利義昭が吉川元春へ宛てた書状
早速だがまず原文をご覧いただきたい。
今回は画質がいま一つで申し訳ない。
原文
釈文
豊州間和与之儀、対元就
輝元申遣候、今度、討果
凶徒等、少々逃退四国之由候、
然者退治此節候間、閣私
意趣、抽忠節候様、異見肝
要(候)委細聖護院門跡可有
演説候、猶信恵・藤長可
申候也、
正月十三日 (花押)
吉川駿河守とのへ
原文に釈文を記してみた
書き下し文
豊州間和与の儀、元就・
輝元に対し申し遣わし候。このたび
凶徒ら討ち果たし、少々四国に逃げ退くの由候。
しからば、退治この節候間、わたくしの意趣を
差し置き、忠節を抜きんじ候よう、異見
肝要に候。委細、聖護院門跡演説
あるべく候。尚、信恵・藤長
申すべく候なり。
正月十三日 (花押)
吉川駿河守どのへ
原文に書き下し文を記してみた
難読箇所や留意点の解説
豊州間・・・(ほうしゅうかん)豊州は九州の豊前・豊後の国を指すが、ここではその地を支配する大名・大友宗麟のこと。
和与・・・(わよ)和議・和睦のこと。
少々・・・(しょうしょう)すごく多く。
この節・・・(このせつ)と読む。
閣・・・(さしおき)かつてはこの一字でさしおくと表現する場合も多かった。
抽・・・(ぬきんじ)かつてはこの一字で抜きんじと表現する場合も多かった。
候様・・・(そうろうよう)
聖護院・・・(しょうごいん)聖護院道澄という天台宗の僧侶のこと)
門跡・・・(もんぜき)皇族や貴族の子弟が住職になった場合、門跡と呼ばれることが多かった。
聖護院道澄もまた太政大臣近衛家の子息である。
信恵・藤長・・・(のぶよし?・ふじなが)
幕臣の上野信恵と一色藤長のこと。
上野信恵についてはよくわからないが、一色藤長はおもに足利義昭の外交官として活躍し、のちに信長を挟み撃ちにするため、武田信玄との取次ぎ役も担った。
現代語訳
毛利家と大友家の和睦の件、元就と輝元に申し遣わした。
このたび凶徒らを討ち果たしたが、少々四国に逃げ退いたとのことである。
今回これらを退治しようと思っているので、個人的な恨みは差し置き、忠節を果たすよう意見することが肝要である。
詳細は聖護院道澄が申し伝える。
なお、上野信恵と一色藤長が添状で詳しく申すだろう。
足利義昭による御内書の乱発
御内書(ごないしょ)とは足利将軍家が将軍個人の私的性が強いながらも、公式な命令書と同様の効果がある書状のことである。
少し難しいかもしれないが、効力の強いものだと考えていいだろう。
義昭は将軍になってからこの御内書を乱発した。
中には他大名の家臣に対しても、大名の頭越しに御内書を発給し、社会の混乱を招いた。
当時信長は毛利元就と友好的な関係を築いており、播磨へ援軍を派遣したこともあった。
毛利家と大友家との戦いでは、信長は中立性を保ちながらも毛利家を支持している。
そんな中、信長の知らぬところで将軍・足利義昭が「四国を攻めるから大友家と和睦して力を貸せ」と御内書を送ったのだ。
毛利家は当惑しただろう。
なぜ吉川元春に宛てたのか
当時の毛利家の外交を担っていたのは元春の弟である小早川隆景が有名である。
元春は外交というよりは戦場での活躍が頭に浮かぶかもしれないが、数万を率いる大将であるなら外交の取次ぎに選ばれても不思議ではない。
吉川元春 (1530~1586)
毛利元就の次男として生まれ、武勇に秀でた。
尼子家が吉田郡山城に攻め寄せた際、弱冠11歳の元春が何人もの敵兵を討ち取る活躍を見せた 。
元服後、母の実家である吉川家の家督を相続。
主に山陰地方の軍略を担い、生涯を毛利家のために尽くした。
私の不勉強で当時の小早川隆景がどのような行動を取っていたのかはわからないが、何らかの事情で(出陣中など)書状を受け取れなかったのかもしれない。
当時の外交のルールとして、大名に直接書状を送るのは非礼に当たるので、家老格の人物に書状を出したのだ。
古文書が読めなくても古文書を楽しめる
古文書が読めなくても大丈夫。
当時の文書には様々な暗黙のルールが存在した。
その暗黙のルールから面白いポイントを紹介しよう。
将軍が大名の家臣に宛てるのだから、当然ではあるがこの書状は書札礼の上から見ると非礼である。
書札礼(しょさつれい)というのは、平たく述べると書簡を出すときに守るべき礼法ということ。
では、どこが非礼にあたるのかを見てみよう。
ポイント1 書き留め文言がない
書き留め文言(かきとめもんごん)とは本文の末尾に添えるキーワードのこと。
現在では「敬具」や「草々」、「かしこ」が用いられることが多い。
ここでは「申すべく候なり」の後に「恐々謹言」や「謹言」、「あなかしこ」などの書き留め文言が本来ならくるはずなのにそれがない。
目下に宛てての書き留め文言は「謹言」あるいは「仍如件(よってくだんのごとし)」となる場合が多いが、それすらない。
さらに言えば脇付もない(進之候(しんじそうろう)や参(まいる)など)
関連記事:戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり
ポイント2 宛名が日付よりもはるかに下
これも書状を出した人物が、宛名の人物をどのように見ているかを知る上で大きなポイントとなる。
宛名を日付よりも上に書く場合は、目上の人物ということになる。
逆に下だと目下の人物ということになるが、本状ははるか下に「吉川駿河守とのへ」と記されているのが注目のポイントだ。
例としてある時、明智光秀が追放された細川藤孝の家臣を気遣って、世話をしてくれている岡本一族に宛てた書状を挙げよう。
関連記事:【古文書講座】「麒麟がくる」の明智光秀が細川藤孝に打診した直筆書状を解読
岡本一族よりも明智光秀の方がはるかに身分が高いにもかかわらず、日付と宛名の上下差はこの程度である。
本状がいかに相手を下に見ているかがよくわかる。
将軍という存在の大きさからすると当たり前の話かも知れないが。
ポイント3 大きく崩された「殿へ」の字
非礼なポイントとしてもう一つある。
一番最後の文「吉川駿河守とのへ」となっている部分。
これははっきり言ってしまえば、もっとも非礼にあたる書札礼だ。
本状は「殿」の字が完全にくずされて、ほぼひらがなになってしまっている。
宛名となる人物が偉い人ほど「殿」は崩さずに書く傾向が当時はあった。
これをここまで崩して書くということは、相手をかなり下に見ているということになる。
将軍は皆このような書き方なのか、それとも義昭が将軍の権威を取り戻そうという意気込みからこのような書札礼になっているのかはわからない。
くずし字が読めなくても、書状をこうした観点から見るのも面白いのだ。
義昭は大友宗麟にも御内書を送っていた
今回は吉川元春に宛てた書状がメインなので、簡単に説明する。
豊芸間之儀、急度無事可然候、
此刻、四国可退治候之條、同心肝要候、
自然相方於及異儀者、対天下可為不忠間、
加分別和平専一候也、
二月七日 御判(足利義昭)
大友左衛門督入道とのへ
(豊芸間の儀、きっと無事然るべく候。
この時、四国退治すべく候の条、同心肝要に候。
自然相方異儀に及ぶに於いては、天下に対し不忠たるべき間、
分別を加え和平専一候なり。
二月七日 御判(足利義昭)
大友左衛門督入道とのへ)
訳すと
大友-毛利は必ず和議をすべきである。
今、四国を退治するつもりなので、同心することが肝要である。
もしどちらかが同意しなければ、天下に対する不忠なので、よく分別して和平せよ。
1570年2月7日 御判(足利義昭)
大友宗麟とのへ)
この書状は先に吉川元春に宛てた書状と同時期になる。
内容もあまり変わりはないが、これも信長には無断で出した御内書なのだ。
信長怒りの制裁 殿中御掟に五ヶ条を追加
まず足利義昭が「四国征伐」にこだわる理由であるが、これは1年ほど前にさかのぼる。
永禄12年(1569)1月5日。
信長に敗れて四国に逃れていた三好三人衆らは密かに上陸し、将軍・足利義昭の宿所を包囲し、命を狙った。
この時将軍奉公衆として必死の防戦に努めたのが、細川藤孝や明智光秀である。
翌日には三好義継や池田勝正らが救援に駆けつけ、三好三人衆らを撃退したという事件があった。=六条本圀寺の変
また、義昭の兄である第13代将軍・義輝も三好氏らに暗殺されており、彼にとっては四国征伐は悲願だったのかもしれない。
この年の10月には信長と義昭との間で仲違いがあり、信長は美濃へ帰国したまま年が明けても一向に上洛しなかった。
義昭が吉川元春や大友宗麟らに御内書を発給したのはこうした時期のことである。
信長は当時毛利家と友好的な関係にあったので、信長の知らぬところで将軍が勝手な外交を展開することは好ましいことではなかった。
永禄12年(1569)1月14日と16日に信長はすでに「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」という将軍の規則書を出して、義昭も袖判を捺しているが、義昭がこれを遵守したとは言い切れなかった。
京都の治安悪化を恐れた公家衆らが信長と義昭の関係を改善させようと岐阜へ下向していたが、この時信長は将軍と仲直りする条件として、殿中御掟に五ヶ条を追加したのではないかと私は考える。
関連記事:緊急事態 信長と将軍・足利義昭が不和 仲直りの為に信長が出した条件とは
義昭が御内書を乱発した結果どうなったか
義昭が吉川元春や大友宗麟らに御内書を発給したという事実はすぐに信長の知ることとなった。
信長は殿中御掟五ヶ条を追加する。
ここで「諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞けられ、書状を添え申すべき事。」
さらに「御下知の儀、皆もって御破棄あり。その上御思案なされ、相定めらる事。」
が登場する。
足利義昭が勝手に御内書を出すことを制限した上で、これまでの義昭の御内書は全て無効としたわけだ。
これにも義昭は袖判を捺して承認したが、その後も行動を改めた様子はない。
どうも義昭はすぐに信長包囲網を敷いたわけではないようで、信長との協調関係はしばらく続いた。
元亀元年(1570)8月の野田・福島の戦いでは、信長の要請に応じて自ら出陣している。
義昭が自ら信長打倒の兵を挙げるのは、武田信玄が三河野田城を攻略した元亀4年(1573)2月である。
その後は石山・今堅田の戦いで信長に敗れ、和睦を頑なに拒否したために洛外と上京が焼け野原となってしまった。
同年7月には再び挙兵するが敗れ、義昭は京から追放されて事実上の室町幕府が滅亡するのだが、詳しいことは別の記事に書くことにしよう。
ご覧いただきありがとうございました!
この時期の信長の年表はこちらです。
5.覇王上洛(1567~1569)
6.血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
11.将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
古文書関連の記事はこちらです。