今回は越前の戦国大名朝倉義景が浅井長政へ宛てた書状の解読をし、そこから何が見えるのか記事しました。
現代語訳のみをお知りになりたい方は、当記事の中央付近にありますので、飛ばしてご覧ください。
この書状の時代背景
元亀元年(1570)4月。
足利義昭と連立政権を組んだ織田信長は、将軍からの再三にわたる上洛命令を無視した越前の朝倉義景へ大軍をもって攻め込みます。
対する朝倉義景は、先祖からの誼のある浅井長政を味方に引き入れ、信長を退却へと追い込みました。
さらに義景は、信長に恨みをもつ甲賀の六角氏、阿波三好氏らと手を組み、外交の力をもって信長と対峙しました。
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の朝倉義景役はユースケ・サンタマリアさんが演じていらっしゃいますね。
ひょうきんそうな性格で、お金の出しっぷりもよく、斎藤道三のケチなキャラと好対照で個人的には気に入っています(笑)
それはともかく、今回の書状はまさにそうした時期のもので、歴史の教科書にも登場する姉川の合戦のほんの数週間前の書状です。
信長打倒に燃える朝倉義景の書状を解読
それでは実際の書状をごらんいただきましょう。
詳しい解説はこのあとご説明します。
原文
(推定元亀元年)五月十八日付朝倉義景書状
(大阪城天守閣所蔵)
推定としていますが、書状の内容から合致するのは元亀元年(1570)以外にあり得ないことから、この年のものと見てほぼ間違いないでしょう。
釈文
就當表江出馬之儀、
音問怡悦之至候、仍
今日敵出城何茂焼
拂、退散由尤候、弥
様躰被示合可承事
専一候、委細小林備中守
可申候、恐々謹言
五月十八日 義景(花押)
浅井備前守殿
この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)
『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)
原文に釈文を記してみた
(推定元亀元年)五月十八日付朝倉義景書状+釈文
補足
※音問(いんもん)・・・便りを出したり来訪すること。または書状そのもののこと。
※怡悦(いえつ)・・・喜び楽しむこと。まことに喜ばしいこと。
※専一(せんいつ)・・・一つのことに注力すること
その他用語に関してわからないことは、下記のリンクからご参照ください。
古文書解読の基本的な事 よく出る単語編五十音順
書き下し文
当表へ出馬の儀につきて、音問怡悦の至りに候。
仍って今日敵の出城、いずれも焼き払い、退散の由もっともに候。
いよいよ様てい示し合わされ承るべき事専一に候。
委細小林備中守申すべく候。
恐々謹言
(元亀元1570年)五月十八日 義景(花押)
浅井備前守(長政)殿
原文に書き下し文を記してみた
(推定元亀元年)五月十八日付朝倉義景書状+書き下し文
現代語訳
当家も近江へ出陣して合力致すので、そこもとから書状をくれたことは誠に嬉しい限りだ。
既に敵の出城へ肉薄して焼き払い、首尾よく退散したとのこと。
これもまた素晴らしいことだ。
今後の作戦について話し合いたいので、日時等を調整しておいてくれ。
詳しいことは取次の小林備中守が申すであろう。
敬具
(1570年)5月18日 朝倉義景(花押)
浅井長政殿
朝倉義景の生涯
義景が家督を相続するまで
朝倉家は南北朝期より越前国の守護代として斯波氏に仕え、孝景(7代目)の時代には衰退する主家に見切りをつけ、越前国で足利将軍家の直臣となる形で独立を果たしました。
さらに、近江から一向宗の法主である蓮如を招き入れ、門徒の力を借りて国力の充実を図りました。
しかし、のちにそれが長年にわたって朝倉家を苦しめる大きな要因となってしまいました。
義景の父孝景(10代目)の時代には、足利幕府から白傘袋と毛氈鞍覆の使用を許され、幕府の相伴衆にも加えられます。
さらに、京都から清原宣賢、吉田兼右、三条西実隆らの公家や文化人らを招き、交流を持つなど京文化を吸収し、朝倉家の全盛期を築き上げました。
朝倉義景の治世
義景の前半生はほとんど伝わっていません。
朝倉孝景(10代目)の嫡男として生まれ、父の死後家督を相続して、当時天下人として君臨していた細川晴元の娘を娶り、これまでの朝倉家の忠孝もあって、左衛門督という官位を授かります。
さらに、将軍足利義輝から一字を賜り「義景」と名乗りました。
朝倉義景肖像画(心月寺所蔵)
当時隣国の若狭国は武田家が支配していましたが、三好長慶や内藤宗勝(松永長頼)らの扇動により、国人の粟屋勝久、逸見昌経らが反旗を翻していました。
義景の母が若狭武田家の娘だったこともあり、足利義輝・細川晴元・六角義賢陣営の一員として武田家を助けるために永禄6年(1563)から毎年のように若狭へ攻め入っています。
一方、北の加賀国一向門徒衆との戦いは泥沼の戦闘を繰り広げていました。
その戦いの最中に長老の朝倉宗滴が病没。
その後陣営を立て直し、朝倉景鏡(かげあきら)・景隆を両大将として加賀を攻めますが、陣中で両者が喧嘩をして一門に死者を出したり、家臣の堀江景忠が謀反の嫌疑を掛けらて家中で軍事衝突が起きるなど、衰退の兆しが見え始めていました。
足利義昭越前御動座
そんな中、畿内では永禄の変が起き、義景は亡き将軍足利義輝の実弟、足利義昭(義秋)を越前に迎え入れます。
次期将軍後見人の地位を手に入れた義景が、越後上杉氏、薩摩島津氏、出羽秋田氏などに宛てた副状が現在も残されています。
ここで多くの困難を引き受けて上洛するのか、それともこのまま越前国の太守として版図を広げることなく手伝い戦と専守防衛に徹するのか。
彼にとって人生の大きな岐路があるとしたならば、この時だったでしょう。
しかし、義景には三好や松永と戦ってまで上洛する意思はありませんでした。
加賀一向一揆衆との和議が成立したとはいえ、同時期に一門家臣団の不協和音、さらに最愛の嫡男阿君が急死したことも影響していたのかもしれません。
待てど暮らせど義景は上洛の為に動いてくれる気配がない。
義景出馬の望みなしと落胆した足利義昭は、かねてより誘いのあった岐阜の織田信長の元へと移ります。
義景には義昭を説得して引き留めるだけの言葉がありませんでした。
義景にしてみれば、このまま義昭を置いておくと上洛派と守旧派で家中が分裂しかねず、阿波三好衆との決定的な外交断絶を避けたかったのかもしれません。
永禄11年(1568)7月頃の情勢
朝倉家滅亡
その後の話はご存知の方が多いと思いますが、織田信長が岐阜から兵を出し、六角氏や阿波三好氏らを撃破。
織田家の武力をもって足利義昭を将軍の座に据えました。
信長と連立政権を組む将軍義昭は、再三にわたる上洛命令を朝倉家に出しますが、義景はこれをことごとく無視。
これにより、信長の越前征伐を招きます。
ところが信長の妹婿だった浅井長政が信長と手を切り、背後から織田家を攻めました。
信長はたまらず敗走。
朝倉義景は信長との戦いに勝利します。
今回の古文書は、まさにこの時期のものです。
義景と浅井長政は歩調を合わせ、阿波三好衆や六角氏とも手を組み信長と戦いますが、姉川の合戦で敗北。
その直後の志賀の陣で比叡山に立て籠もり、数か月のにらみ合いの末、束の間の和議を結びます。
長年緊張状態の続いていた加賀一向宗と和議、そして武田信玄との同盟を結ぶことに成功する外交上の大きな成果を出しますが、出足の速い信長に後れを取り、防波堤であるはずの浅井氏を助けることが出来ませんでした。
天正元年(1573)8月の戦いで織田信長の奇襲に遭って大獄砦などが陥落。
浅井氏の救援に見切りをつけた義景は越前へ撤退を開始します。
ところがこの動きが信長に読まれていて、国境の刀根坂の合戦で致命的な大敗北を喫します。
這う這うの体で一乗谷まで逃げ帰った義景でしたが、最後は一族の朝倉景鏡に裏切られて自刃。
41年の生涯を閉じました。
朝倉義景 (出典不明)
辞世
七顛八倒 四十年中 無他無自 四大本空
(しちてんばっとう しじゅうのうち たなくじなし しだいもとよりくう)
余談ですが、在りし日の越前国三国湊からは、明船がたびたび出入りしていることが文書から確認されていて、朝倉家は交易を通して莫大な富を得ていたと考えられます。
それは近年行われた発掘調査で、朝倉家の居城があった一乗谷館から数多くの明(中国)製の磁器が出土していることからも明らかです。
信長打倒に燃えていたのは義景だけではなかった
軍事の才覚では信長に後れを取っていたと言わざるを得ない朝倉義景ですが、外交の手腕においては決して負けてはいませんでした。
足利義昭が越前を去った翌年8月には、縁者の誼のある武田元明を救出して越前へ連れ帰り、若狭国を傀儡国にします。
(※ただし若狭の国衆は将軍直臣という性質も強く、その限りではない)
元亀元年(1570)4月に大軍を率いて攻めてきた織田信長を撃退した際には、信長の妹婿だった浅井長政を寝返らせ、さらに南近江で信長によって所領を奪われた六角氏、続いて若狭武田一族の武田信方(彦五郎)も味方に引き入れることに成功しています。
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詳しくは次のページで述べますが、同年6月下旬に起きた姉川の合戦では、信長に調略を受けていた武田彦五郎は信長に味方せず、兵を出しませんでした。
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姉川の敗戦後も朝倉家はすぐさま体勢を立て直し、信長が大坂表で身動きとれないのを見て湖西より京都へ進撃しました。
これがいわゆる志賀の陣です。
信長はたまらず兵を京都へ退いて坂本に陣を張りますが、これを見た朝倉義景と浅井長政は比叡山麓の砦に立て籠もり、持久戦法をとりました。
これも比叡山延暦寺、阿波三好氏、さらに石山本願寺と結んだからこそできたことです。
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ご覧いただきありがとうございます!
江戸時代の奉行の判物がよく古文書の勉強材料で用いられますが、当サイトは敢えて戦国時代の生の史料を題材にしております。
武将たちの臨場感と緊張感が見え隠れする文書に興味を持っていただけると嬉しいです。
さて、ここから先は信長の越前撤退から姉川の合戦までの期間を、実際の史料も引用して、もう少し踏み入った専門性の強い内容となっています。
長文となりますので、ご興味のある方は是非読み進めていただけたらと存じます。