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はじめに
- 重要な部分は赤太文字で
- それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
- 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーラインで
それでははじめていきます。
明智光秀が丹波攻略を任されるまでの軍事行動
多少時期が前後するが、天正2年(1574)7月。
信長は過去に2度も敗北を喫した伊勢長島一向一揆攻めを敢行。
この時光秀も従軍しているが、石山本願寺との戦いのために兵力の温存していたのか、予備軍という形で鳥羽近辺に在陣するにとどまっている。(細川家文書)
この陣中の7月27日に光秀は信長に報告する書状を出しているが、同月29日付けの信長の返書には
「書中具(つぶさ)ニ候へハ、見る心地ニ候」
と褒め称えている。
光秀の几帳面さが窺われる史料である。
翌天正3年(1575)4月。
信長自ら河内へ出陣。
4月7日。
若江に移陣して本願寺の出城である河内萱振城を攻略する。
この時光秀も従軍し、4月8日に三好康長籠る和泉高屋城を降伏させている。
5月21日の長篠・設楽原合戦では畿内にとどまり、従軍しなかった。
惟任日向守光秀 誕生
同天正3年(1575)7月3日。
信長は官位昇進の勅諚を辞退。
代わりに主だった家臣に官位を賜ることを願い出て許された。
この時任官を許されたのが
丹羽長秀→「惟住(これずみ)の姓」
羽柴秀吉→「筑前守」
塙直政→「原田の姓と備中守」
村井貞勝→「長門守」
梁田広正→「別喜の姓」
そして明智光秀が「惟任(これとう)の姓と日向守」
である。
この時複数の者が姓を与えられているが、これらは全て九州地方の名族とされる姓である。
九州といえば信長の支配が全く及んでいない地域であるが、これはなぜだろうか。
丹波切り取りの総大将に任命される
丹波の国人衆のうち、川勝氏、小畠氏、片岡氏だけは織田信長に降り忠誠を誓っていた。
天正3年(1575)頃にこれらの国人衆は、光秀の与力に組み込まれることとなった。
信長が丹波の国人・川勝継氏に、天正3年(1575)6月7日付の書状で、
「光秀を丹波攻略の総大将に任じた」とある。
光秀の最初の敵は、丹波守護代家の内藤氏と、有力国人の宇津氏であった。
しかし、光秀は本腰を入れて丹波の切り取りに専念できたのではなく、同年8月に始まった越前一向一揆平定戦など、各方面でのいくさにも赴いている。
光秀の丹波攻略は同年9月頃から始まった。
いざ丹波を攻めてみると、最大の敵は内藤・宇津両氏ではなく、奥丹波三郡を支配する赤井直正だった。
光秀は但馬竹田城(あの竹田城)に籠る赤井直正を攻め、さらに黒井城を包囲して赤井氏を追い詰めた。
同年の11月中には早くも
「丹波国衆過半無残所惟日一味候」
と記されている。(吉川家文書)
丹波攻略はもはや目前であった。
八上城主・波多野秀治らの謀反と丹波攻略の頓挫
翌天正4年1月。
ここで大ドンデン返しが起きた。
それまで光秀に従っていた八上城の波多野秀治らが突然背き、光秀の背後を突いた。
明智軍はたちまち総崩れになり、命からがら近江坂本城へと総退却する。
背いたのは波多野氏だけではなく、光秀の丹波攻略が頓挫したのを見て、多くの丹波国人たちが寝返った。
一説には赤井直正の計略だったといわれているが、真偽は不明である。
ともかく、これにより光秀の丹波攻略は長期戦の様相を呈したのだった。
土佐長宗我部氏の奏者として
少し腑に落ちない点があるが、明智光秀家臣・斎藤利三の義理の妹が、土佐の大名・長宗我部元親の妻らしい。
その縁で元親は信長家臣の中でも光秀を奏者(取次ぎ)を頼み、織田信長と交渉した。
(※取次ぎというシステムはこの当時ではよくあることで、最も丁重とされる書状の出し方だった。)
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この事実からも明智光秀は当時すでに織田家の老臣クラスの地位にあったことが窺える。
長宗我部元親は明智光秀を介し、嫡男・弥三郎に織田信長の「信」の字をもらい「長宗我部信親」と名乗らせている。
丹波攻略の中、遊撃軍団として多忙な日々を送る
天正4年(1576)2月18日。
態勢を立て直した光秀は再び丹波へ攻め込んだが、兵を置いてじきに引き上げた。
光秀自身が赴かないといけないような何かが起きたのだろうか。
同年3月から4月にかけては京都にいて、報恩寺の修理をして二条晴良邸にするための普請奉行を務めている。(言継卿記)
4月14日。
大坂の本願寺攻めのため、長岡(細川)藤孝、荒木村重、原田(塙)直政らとともに出陣。
守口と森河内に陣を敷いた。(信長公記)
石山本願寺は門徒を進めば極楽往生、退くは無限地獄と煽り立てた
5月3日。
大坂攻めで大きな役割を果たしていた原田直政が天王寺にて討死。
光秀も佐久間信盛らとともに天王寺砦に在陣していたが、一揆勢に攻められて危機に陥った。
石山合戦でもっとも激しい戦いが行われたのが天王寺合戦だといわれる。
この絵はこのときのものであろうか。
この時、信長自らが急遽救援に駆けつけ、小勢で囲みを打ち破り、さらに天王寺に籠城していた光秀らと合流した上で包囲していた一揆勢を蹴散らした。(信長公記、当代記)=天王寺合戦
乱戦の中、信長自身が鉄砲を受けて足を負傷したほどの戦いだった。
この戦いは石山合戦の戦局を大きく変えたという。
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紀州雑賀攻めと明智光秀
この戦いを機に織田軍団を再編成し、石山本願寺攻めの総大将を佐久間信盛に任せることになった。
光秀はこの陣中で病を発し、直ちに帰国している。
医師の曲直瀬道三の治療を受けたり、吉田神社の神祇である吉田兼和(兼見)に祈念してもらったりしている。(兼見卿記)
この時、信長が使者を派遣して見舞いも受けている。
翌天正5年(1577)2月。
紀州雑賀攻めに光秀は従軍。
雑賀孫市らを屈服させた後も、光秀は佐野の砦に残し置かれて仕置きを行っている。(信長公記)
光秀は信長らが引き上げた後も8月末まで在陣した。
同年9月に上洛。
織田信忠の補佐をする形で謀叛を起こした松永久秀を攻めた。
10月1日。
長岡(細川)藤孝、娘婿である忠興父子とともに大和片岡城を攻略する。(信長公記、兼見卿記)=片岡城の戦い
10月10日には信貴山城を攻め、松久久秀は爆死した。=信貴山城の戦い
丹波攻略を進めつつ、各地でのいくさにも活躍
松永久秀討伐が終わると、ようやく目標だった丹波攻めに取り掛かった。
同天正5年(1577)10月29日には丹波籾井城を攻略。=籾井城の戦い
さらに藤孝の助力を得て内藤氏の丹波亀山城を攻め、開城させた。(細川家記)=亀山城の戦い
翌天正6年(1578)3月20日。
今度は丹羽長秀、滝川一益も丹波攻めに加わり、大兵力で丹波八上城を包囲した。(細川家譜)
しかし、丹波進撃もここまで。
光秀はまたもや丹波攻めを中断せざるを得なくなる。
同年4月には大坂攻めの命が下り、織田信忠に従った。(信長公記、細川家文書)
この時、八上城包囲には明智光忠(次右衛門)らを残していた。
大坂より帰陣すると、光秀はすぐに丹波攻略に戻っている。
4月10日。
再び滝川一益、丹羽長秀を加えた明智軍は、荒木氏綱(山城守)の細工所城を攻め、即日これを落とした。(信長公記)=細工所城の戦い
しかし、またもや光秀は播磨への援軍として派遣され、丹波攻めを中断している。
同年6月には播磨神吉城攻めに参加。
7月20日にこれを攻め落とした。(信長公記、多門院日記)=神吉城の戦い
1か月ほどの休養があった後の9月11日。
再び丹波へ出陣。(兼見卿記)
小山、高山、馬堀の各城を攻め落とす。(細川家記)
荒木村重謀叛 丹波攻めどころではなくなる
天正6年(1578)10月下旬。
摂津一国を与えて畿内で重きを成していた荒木村重が突如謀叛。
光秀の娘は荒木村重の嫡子・村次にも嫁いでいた。
摂津一国がまるまる寝返ったとなれば、本願寺攻め、丹波攻めが頓挫するだけでなく、中国地方の攻略に掛かっていたいた羽柴秀吉が孤立することを意味していた。
光秀は松井友閑、万見重元とともに、村重糾問の使者として有岡城へ遣わされた。
さらに、村井友閑、羽柴秀吉と三人で最後の説得を試みている。(信長公記)
同年11月9日。
信長は自ら荒木村重討伐に出陣。
当然光秀も従軍している。
このとき光秀の娘は離縁され、光秀のもとへ送り返された。
この娘はのちに明智秀満と再婚しているようだ。
信長は有岡城の周辺に多数の付城を築き、長期包囲体制を整えた。
光秀はその最中、羽柴秀吉への援軍として播磨三田城を攻めている。=三田城の戦い
八上城攻略と光秀の生母人質の真偽について
翌天正7年(1579)正月。
光秀は久々に休暇を許されていたようで、年越しを近江坂本城で迎えた。
1月7日、8日は、坂本城で茶会を催している。(宗及記、宗及抜書)
2月28日。
荒木村重の有岡城包囲が続いている中、光秀は丹波攻めを再開のため、丹波亀山に着陣した。(兼見卿記)
4月4日。
光秀は丹後の和田弥十郎に宛てて、八上城の落城が近いこと。
攻略後に丹後へ向かうことなどを記している。(下条文書)
5月5日。
波多野宗高・宗長父子が自害し、氷上城を攻略。=氷上城の戦い
これにより八上城は裸城となった。
6月1日。
ついに波多野秀治籠る丹波八上城を攻略。
秀治ら兄弟3人は、同月の6日に洛中を引き回された上に安土へと送られ、そこで信長の命により磔刑に処せられたという。(兼見卿記、信長公記)=八上城の戦い
なお、八上城攻略に頓挫した光秀が、母を人質に出して降伏させ、身の安全を保障したとする説には多くの疑問がある。
このソースは「総見記」なのだが、多くの矛盾点があって捏造の可能性が高い。
というのは、長きにわたる包囲により、兵糧が尽きた波多野勢は餓死者が相次いでおり、万策尽きて光秀の降伏にようやく応じたと考える方が現実的である。
従って、本能寺の変の原因に光秀生母殺害が挙げられるのは無理があると思う。
ついに丹波を平定する
波多野秀治の八上城を落としても、まだ丹波には強敵の赤井氏や、宇津氏も激しく抵抗を続けていた。
八上を落として一旦凱旋していた光秀は再び丹波へ出陣。
丹波宇津城を攻めた。
宇津頼重は城を捨てて遁走。=宇津城の戦い
さらに光秀は鬼ガ城を攻めている。(信長公記)=鬼ガ城の戦い
この一連の戦いで丹波にある御料所(天皇の直轄地)山国荘を回復した功により、禁中から馬と鎧、香袋を賜っている。(御湯殿の上の日記)
どうやらこの領地は宇津氏が永禄4年(1561)頃から押領し、幾度にもわたる勅命を無視し続けていたようだ。(御湯殿の上の日記)
さらに光秀は長岡(細川)藤孝とともに丹後に入り、一色氏の弓木城を攻め降している。(細川家記)=弓木城の戦い
続いて赤井忠家籠る丹波黒井城を攻める。
(丹波の赤鬼と恐れられた赤井直正は前年3月に没してる)
赤井忠家には叔父・直正ほどの力はなく、黒井城は陥落。
忠家は姿をくらました。=黒井城の戦い
これにより丹波で組織的に抵抗する勢力はいなくなり、明智光秀の丹波攻略は達成されたのである。
織田信長も明智光秀の軍功を賞賛。
「名誉比類なし」
との感状を受けている。
光秀は引き続き丹波にとどまり、国領城を攻略したり、丹波の仕置き(安堵状発行など)を行ったり、公家の吉田兼和(兼見)の訪問を何度か受けている。(兼見卿記)
10月24日。
光秀は安土へ凱旋した。
そして丹波国主へ
翌年早々あたりから光秀は新知行として丹波一国を加増されたと思われる。
丹波一国の主、亀山城主とはいうものの、光秀は依然として坂本の本拠地を離れていない。
翌年の天正8年(1580)正月を近江坂本城で過ごした光秀は、1月9日に茶会を催している。(兼見卿記、宗及記)
2月13日。
丹波天寧寺の規律を定める状書を発給。(天寧寺文書)
閏3月。
近江坂本城を修築する。(兼見卿記)
4月6日。
山城国賀茂荘の土豪たちに判物を下し、出頭の無いことを叱り、請米、夫役等を催促する。(南行雑録)
8月上旬。
長岡(細川)藤孝が信長より丹後一国を与えられる。(兼見卿記、細川家記)
光秀もこの時協力して、丹後宮田市場の条書を定めたり、宮津城普請の相談を藤孝から受けたり、丹後の国人・吉原西雲の誅殺に関与したり、藤孝の丹後入国の様子を信長に報告したりしている。
これらのことから、長岡藤孝がこのあたりから光秀の与力に組み込まれているのではないかと推察できる。
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織田軍団再編成 佐久間信盛らの追放
またこの8月。
織田家の老臣・佐久間信盛、林秀貞、安藤守就、さらに丹羽氏勝らが追放されている。
この時、信長が佐久間信盛に十九ヵ条の折檻状を送りつけているが、そのうちの1条には
一、丹波国、日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし。然うして、池田勝三郎小身といひ、程なく花熊申し付け、是れ又、天下の覚えを取る。爰を以て我が心を発し、一廉の働きこれあるべき事。
(丹波の国は惟任日向守(明智光秀)の働きによって平定し、天下の面目をほどこした。ついで羽柴秀吉は数か国を平定する比類なき働きだ。しかも、池田勝三郎(恒興)などは小身(小禄)であるにもかかあらず、摂津花隈城を落とし、これまた天下の覚え晴れがましい。これらを手本に一念発起し、一廉(ひとかど)の働きをするべきである。)
織田信長発給佐久間信盛宛十九ヵ条条書
と明智光秀を第一に取り上げ、それに比べてお前はなんなんだと叱責する旨の文脈が見て取れる。
関連記事:佐久間信盛 織田家中ナンバー1の知行からの追放
大和国の仕置き
織田家で最も多い?知行地を得ていた佐久間信盛の追放が特に影響が大きかったようで、光秀は信盛が知行にしていた大和国に入り、滝川一益とともに大和の諸寺や国人らに指出を徴発したりしている。(多門院日記)
特に奈良興福寺はかつて織田家に最も反抗的だったためか、起請文まで提出させられている。
関連記事:戦国時代の起請文とは 意味や定番の書き方は
(※普通こうした奉行的な役割は信長の側近が派遣され行うものだが、大軍を預かる地位にある二人が派遣されたことはあまり例がない。暴動が起きると想定していたのかもしれない)
明智光秀と滝川一益は同年11月2日まで同地に滞在していたと見られ、大和を離れるまで厳しく諸士に指出を徴した。
不正があったか反抗したからであろうか。
その間に戒重(かいじゅう)某、岡弥次郎ら4人が殺された。
奈良興福寺の多門院英俊は「地獄ノ苦モ同ナラン」と記している。(多門院日記)
明智光秀の軍事指揮権の範囲
佐久間らの追放もあり、光秀の支配権は丹波一国と近江坂本のある志賀郡、木戸・田中両城のある高島郡、京都山城国の北山城と南山城周辺、さらに与力として長岡藤孝の丹後一国に加え、大和の一職支配を委ねられた筒井順慶も組み込まれて大勢力となった。
この広大な軍事指揮権は、播磨の羽柴秀吉と北陸の柴田勝家に匹敵するものである。
京都馬揃え 光秀の晴れ晴れしい姿
翌天正9年(1581)1月23日。
光秀は信長より京都馬揃えの準備を命じられた。(士林証文)
馬揃えとは天皇の御前で行う大規模な観兵式・軍事パレードである。
同天正9年(1581)2月28日。
京都で馬揃えが盛大に執り行われた。
1番手は丹羽長秀が摂津衆、若狭衆を率いて行進し、
2番手は蜂屋頼隆が河内衆、和泉衆、根来衆を率いて行進。
明智光秀は3番手で、大和、上山城衆を率いて行進した。
丹波亀山城に居を移す
光秀は馬揃えの後、丹波国の亀山に入ったらしい。
天正9年(1581)4月12日。
丹後宮津で娘婿の長岡(細川)忠興から誘われ、丹後宮津城で親友の藤孝や里村紹巴と連歌に興じている。(宗及記)
細川忠興肖像
その後、光秀は丹波に帰り、宇津城の井戸の工事を行っている。(兼見卿記)
明智光秀軍法の真偽について
6月2日。
光秀は自らが指揮権を預かる範囲内で軍紀を定める。(御霊神社文書)
これは18ヶ条からなるもので、先鋒や協力部隊の行動のこと、部隊間の連絡のこと、兵糧米の支給、軍役の基準、罰則に至るまで細々と定めるものであった。
興味深いことに、この文書の文末に
「自分は沈渝していたのを信長に召し出されて莫大な兵を預けられた。
(御霊神社文書)
それゆえ武功を無駄にしたくないので、この軍紀を定めた」
と記されている。
そこには大軍団の主としての自覚が見て取れる。
奇しくも本能寺の変のちょうど1年前だが、恐らくこれはのちの世の儒学者が記した偽書だと考えられる。
というのは、花押はかなり光秀に似ているものの、紙の質が江戸時代に流通していたものであることと、戦国時代には見られない文体が数多く見受けらること、さらに、難読な部分が多く漢詩的な表現が多いことが挙げられる。
そもそも軍規というものは、教養のない一兵卒に至るまで理解されないと意味がない。
従って、私は明智軍法なるものは偽書ではないかと考える。
なお、歴史学者によっては明智軍法を引用元にしていることがしばしばあるので、今後もその真偽についての検証は必要だろう。
関連記事:明智軍法は実在したのか?本能寺のちょうど1年前に定められた明智軍法の真偽に迫る
新領国の統治に勤しむ
この年の8月まで光秀と藤孝は共同で新領地の検地をおこなっている。(細川家文書)
8月。
羽柴秀吉が囲んでいる因幡鳥取城に毛利軍が迫った。
信長は光秀をはじめ、長岡藤孝、池田恒興らに出陣を命じる。
藤孝らは、まず兵糧船を鳥取城包囲軍へ向けている。(信長公記、沢田義厚氏文書)
光秀自身は因幡国への出陣はしていない。
8月14日には丹波亀山城で津田宗及と月見をしつつ連歌会を催し、
8月19日には大和国へ赴き、大和郡山城の普請を見回っている。(宗及記、多門院日記)
甲州征伐と明智光秀
天正10年(1582)の元旦。
光秀は安土へ出仕し、信長に年賀の挨拶をする。(宗及記)
その後、しばらく近江坂本城にいたのか、1月20日に吉田兼和(兼見)の方を受けている。(兼見卿記)
1月25日と28日。
津田宗及らを招いて坂本で茶会を催す。(宗及記)
2月3日。
織田家による甲州征伐が開始される。
光秀も従軍し、信長と同じく一番遅く出陣した。
戦いは先鋒の織田信忠が全て済ませ、名門・甲斐武田家は滅亡する。
武田信玄の子。信玄没後、甲斐武田家の名代として武田家を支えた名将。
信長は富士山を鑑賞しつつ、東海道を回って徳川家康の饗応を受けながら帰陣。
この時光秀も信長と行動を共にした。(信長公記)
本能寺の変なんてなかった。
(次回はいよいよ本能寺の変です)
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