本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!

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本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!
らいそくちゃん
らいそくちゃん

戦国時代の文書は、本状に加えて副状(そえじょう)が存在する場合があります。
今回は後奈良天皇女房奉書の副状を読み、本状との違いを探ってみましょう。

らいそくちゃん
らいそくちゃん

加えて前回の記事に引き続き、島津貴久の修理大夫任官の時代背景、摂関家近衛氏との繋がりについても紹介いたします。

後奈良天皇の奉書

 前回の記事「初級・戦国時代の女房奉書を読んでみよう!」では、女房奉書(にょうぼうほうしょ)の何たるかを後奈良天皇書状を例に解説しました。

後奈良天皇とは天文5年(1535)に即位した第105代目の天皇です。
即位した当時は、天文法華の乱などで畿内各所が荒廃し、即位式も執り行えないほど財政が窮乏していた時期でした。
それでも彼は強い責任感を持ち、時には道理の通らない献金を拒むほど徳のある天皇でした。

後奈良天皇木像(浄福寺蔵)

後奈良天皇木像(浄福寺蔵)wikipedia「後奈良天皇」項より


 後奈良天皇(1497-1557)

第105代目の天皇。
御柏原天皇崩御にともない践祚するも、当時の朝廷は窮乏に喘いでいたため、実際に即位式が執り行われるのに10年の歳月を要した。
清廉高潔な人柄として知られ、疫病の終息を祈願した願文も遺されている。
学問・和歌への造詣も深く、数々の和歌や日記も存在する。

戦国時代は武士の時代。
私たちは学校の授業で、朝廷の権威が失墜していた時代と学んだかもしれません。
しかしながら、天皇を中心に一定の影響力を保ち続け、宮中の行事や相論の仲裁など、行うべき仕事は山積みでした。

どの仕事を行うにしても金が必要です。
荘園の多くを失って久しい戦国時代は、権力者からの献金が不可欠です。
天文21年(1552)6月に発給された後奈良天皇女房奉書(前回の記事)も、そのような背景があって出されたものだと考えられています。

残念ながら後奈良天皇の本心はわかりかねますが、本来島津本宗家が継承すべき「修理大夫しゅりのたいぶ」の官職を、やや実力で勝ち取った趣のある島津貴久へ与えたのも、そうした事情が絡んでいたのかもしれません。

朝廷も一つの組織。
時には天皇の本意が反映されず、宮中の実力者の意見が通る場合もあります。
そういえば、天文21年(1552)6月の女房奉書は、准后じゅごうの近衛稙家、大納言の広橋兼秀が絡んでいましたね。

後奈良天皇女房奉書の副状

 実はこの女房奉書に添えて、同日付でもう一簡、書状が発給されています。

この書状こそが今回の題材です。
発給者は、当時武家伝奏を務めていた大納言広橋兼秀。
宛所は同じく公家の西洞院にしのとういん時秀です。

それではさっそくご覧いただきましょう。
副状(そえじょう)にはどのようなことが記されているでしょうか。
副状の意味や機能については後述します。

原文

本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!『島津家文書(六月十四日付広橋兼秀副状)』a
本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!『島津家文書(六月十四日付広橋兼秀副状)』b

『島津家文書(六月十四日付広橋兼秀副状)』

釈文

(a)

嶋津修理大夫為
宣下御礼、御太刀
一腰
清光、御馬一疋
進上之儀、御執
奏之趣、則致奏
聞候処、女房奉書

(b)

如此候、珍重存候旨、
可令洩申入給候也、
謹言、
 六月十四日 兼秀


  
(裏紙切封ウハ書)
 
(墨引)
   平少納言殿 兼秀

この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)

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読み方の解説

 ここでは難しい表現や紛らわしい字を解説いたします。
古文書解読に関心のある方はご覧ください。

(a)

本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!『島津家文書(六月十四日付広橋兼秀副状)』釈文a

1~2行目の「嶋津修理大夫為宣下御礼、
前回と同様、修理大夫(しゅりのたいぶ)とは、薩摩の大名島津貴久のことです。
「嶋」のつくりである「鳥」と、「津」は教科書通りのくずし方をしています。

「修理大夫」については、前回の記事で述べましたので、詳しくは前回記事の読み方の解説-1枚目の補足をご参照ください。

「為宣下御礼」
「宣下(せんげ)の御礼(おんれい)として」と読みます。
「為」が返読文字となりますので、後で返って読みましょう。
“~のため”と読む場合もありますが、ここでは文脈から「~として」と読んだ方が適切です。
やや「為」のくずしに見えないかもしれませんが、旧字は「爲」となります。

ここまでを読み下すと
嶋津修理大夫しゅりのたいぶ宣下の御礼おんれいとして、
となります。

つまり「島津貴久が修理大夫の任官が叶った御礼として」といった文意です。

3行目の「御馬一疋
数を表す「疋(ひき)」は、以外でも価値の高い絹布・牛・金銭などを数える際によく用いられた単位です。

4~5行目の「御執奏之趣、則致 奏聞候処、
「執奏(しっそう)」とは意見や書簡などを貴人に取り次ぐことを指します。
「奏聞(そうもん)も天皇へ申し上げることを指しますので、同じような意味の解釈で良いでしょう。

「趣(おもむき)」のくずしは難しいですね。
しかし、これが基本的なくずし方です。
へんの部分が”王(おうへん)”とよく似たくずしをしていますが、つくりの部分で判別が可能です。
「~之趣」といった形で頻出する文字ですので、優先して覚えることをおすすめします。

一見”別”に見える字は「則」で、これ1字で”すなわち”と読みます。
文書によっては「即」と記される場合もあります。

次の「致」が動詞のため返読します。
あまりくずされていないタイプの”被”に少し似ています。

「奏聞候処、」
「候(そうろう)」の見落としにご注意ください。
古文書でもっとも登場する文字のためか、点を打っただけで表現される場合もあります。

ところで「致」と「奏」の間に、不自然なスペースがあるのがおわかりでしょうか。
これは闕字(けつじ)というもので、一字分スペースを空けることで貴人に対して敬意を払っているのです。

本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!-解説02

「闕字」

関連記事:【古文書入門】解読の基本を織田信長の書状から学ぶ-4.闕字とは何か

今回の場合、「奏聞(そうもん)」のところに闕字が掛かっているため、後奈良天皇に敬意を払っていることになります。
なお、最大限に敬意を払った書札になると、一行分まるまるスペースを空けることもあります。
これを「平出(へいしゅつ)」といいます。

読み下しますと
御執奏の趣き、則ち (闕字)奏聞致し候ところ、

つまり
「島津貴久の進物を御取り次ぎ申し上げたところ、」
といった文意になります。

本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!『島津家文書(六月十四日付広橋兼秀副状)』釈文b

1枚目最後から2枚目1行目にかけての「女房奉書如此候、
最初のひらがな”め”に見える文字は「女」です。
2枚目最初のひらがな”め”に見える文字は「如」です。

本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!-解説03

「女」と「如」の違い

ご覧のようにどちらも全く同じくずし方をしています。
というのも、ひらがな”め”の字母が「女」であるため、このようになります。
「如」は頻出する字のためか、旁の部分が大きく省略される傾向にあります。
この場合は文脈から判断するしかありませんね。
「如此(かくのごとく)」は古文書でも特に頻出する単語ですので、推測から答えを導き出しましょう。

読み下すと
女房奉書かくの如く候。」です。

2行目の「可令洩申入給候也、
文字が掠れて少し読みづらいですが、ここは文字そのものよりも読む順が難しいかもしれません。
私は
「洩(もれ)→申(もうし)→入(いれ)→令(せしめ)→給(たもう)→可(べく)→候(そうろう)→也(なり)。」
としましたが、
「洩れ申し入れ給うせしむべく候なり」と読むべきなのかもしれません。

花押(かおう)を欠きますが、署名は武家伝奏を務めた広橋兼秀。
宛所は桓武平氏の流れを汲む西洞院時秀です。
少納言の「少」が難読で読みづらいですが、「納言」が典型的なくずしをしているため推測で読むことが可能です。
このくずしでは”中”や”大”には見えないですね。

公家の広橋兼秀や西洞院時秀、近衛稙家については後述します。

墨引(すみびき)裏紙(うらがみ)切封(きりふう)ウハ書等については、下記の記事をご覧いただければと存じます。

関連記事:戦国時代の書簡を出す際のルールと専門用語を解説します

原文に釈文を記してみた

(a)

本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!『島津家文書(六月十四日付広橋兼秀副状)』釈文a

『東京大学史料編纂所所蔵文書(六月十四日付広橋兼秀副状)』釈文a

(b)

本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!『島津家文書(六月十四日付広橋兼秀副状)』釈文b

『東京大学史料編纂所所蔵文書(六月十四日付広橋兼秀副状)』釈文b

書き下し文

(a)


島津修理大夫(島津貴久)、宣下の御礼として、御太刀一腰(清光)、御馬一疋進上の儀、御執奏の趣き、すなわち (闕字)奏聞致し候ところ、女房奉書

(b)


かくの如く候。
珍重に存じ候の旨、洩れ申し入れせしめ給うべく候なり。謹言。
 (天文二十一 1552年)六月十四日 兼秀(広橋兼秀)

  (裏紙切封ウハ書)
 (墨引)

   平少納言(西洞院時秀)殿  兼秀(広橋兼秀)

原文に書き下し文を記してみた

本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!『島津家文書(六月十四日付広橋兼秀副状)』書き下し文a

『東京大学史料編纂所所蔵文書(六月十四日付広橋兼秀副状』書き下し文a

本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!『島津家文書(六月十四日付広橋兼秀副状)』書き下し文b

『東京大学史料編纂所所蔵文書(六月十四日付広橋兼秀副状』書き下し文b

現代語訳

 薩摩の島津貴久が修理大夫しゅりのたいぶ任官の御礼として、御太刀(清光)・御馬一頭を進上した件で、近衛稙家殿が御取り次ぎになられた内容を、私が天子様へ奏上したところ、このような女房奉書を下されました。
大変喜ばしいことです。
この件を内々にお伝えいただきたく存じます。
 敬具

(1552)六月十四日 広橋兼秀

副状の機能

 女房奉書は仮名文字主体の流れるような曲線が目立つ書状でしたが、今回は男性が書いた職務上の文書もんじょですので、漢文風の文体となっています。

本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!-解説01

仮名文字主体の文書と漢文風の文書

権力者が発給する公的な書簡には、副状(そえじょう)とよばれる書状も添えられました。
本状(今回の場合は女房奉書)に加えて、側近や一門、あるいは家老衆がそれを裏付ける書状を作成して、同じ相手に送るのです。

いかに位人臣を極めた人物が発給した文書といえども、それのみでは正当性があるといえず、副状とセットとなって初めて効力を発しうるものでした。

それは、権力者の行動が家中全体の総意であるとの裏付けになったからです。
現代においても、政府や指導者が代わったとしても、内政・外交上の決定事項はそう簡単には覆せませんね。
もし、外国との約束を違えると、重大な国際問題となり、国家としての信用を落としかねません。
国内の法を無視して何かを行うにしても、社会が混乱しかねません。

今回武家伝奏の広橋兼秀が発給した副状も、そのような事情があって作成されたものだと考えられます。

本状と副状を見比べる

 前回の後奈良天皇女房奉書と今回の広橋兼秀副状、どちらも島津貴久修理大夫任官の御礼に関する内容です。
ここでは、本状と副状の文章内容を、具体的にどのような相違点があるのかを見ていきましょう。

本状(後奈良天皇女房奉書)現代語訳

 薩摩の島津貴久が、修理大夫就任の御礼として御太刀(清光)・御馬一頭代として千疋分の金銭を進上したとのこと。
近衛稙家が取り次いだと聞き及んでいます。
その旨、天子様も御承認なされたのでここに通達いたします。
  かしく

 従一位広橋兼秀殿へ

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副状(六月十四日付広橋兼秀副状)現代語訳

 薩摩の島津貴久が修理大夫任官の御礼として、御太刀(清光)・御馬一頭を進上した件で、近衛稙家殿が御取り次ぎになられた内容を、私が天子様へ奏上したところ、このような女房奉書を下されました。
大変喜ばしいことです。
この件を内々にお伝えいただきたく存じます。
 敬具

(1552)六月十四日 広橋兼秀
   西洞院時秀どのへ


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『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)

本状と副状の相違点

 本状と副状両通の現代語訳をご覧いただきました。
両通の相違点として、主語に若干の違いはあるものの、内容的にはほとんど同じではないでしょうか。
副状も特に本状の補足として書いているようには見えません。

実は、副状とは本状を発給した貴人の意見が、組織内の総意であると先方へ伝えることが目的のため、多くの場合、現代を生きる私たちが拍子抜けするほど中身の薄い内容となっています。
詳しい内容を先方へ伝えるのは、使者が直接口頭で伝えていたものと考えられています。

今回の場合は、さきの関白である近衛稙家の取次により、薩摩の島津貴久の修理大夫任官が決まりました。
貴久はその御礼として、太刀一腰(清光)と馬一疋代として千疋分の金銭を禁裏へ献上します。

これを受けて武家伝奏の広橋兼家が、天皇の側近くにいて取次などの役割を果たす勾当内侍こうとうのないしを介して後奈良天皇へ奏上。
天皇はこれを承認します。

そして、勾当内侍の女官(女房)が奉書という形式をとり、武家伝奏の広橋兼家に伝達しました。
それが前回の記事にあたる後奈良天皇女房奉書です。

これを受けた兼家は、女房奉書に添えて「朝廷内の総意した意見である」と伝えるための副状を認め、同じく公家の西洞院時秀へ、さらに近衛稙家に披露されます。

今日まで『島津家文書』として、島津氏が両通を保管していたことを考えると、最後は近衛家から島津氏に渡されたのでしょう。
両通が発給されたのは天文21年(1552)6月14日のことですので、下図の表の左から3列目の時期にあたります。

公卿の補任年表と人事異動(天文20~23年)

公卿の補任年表と人事異動(天文20~23年)

島津貴久修理大夫任官に絡んだおもな公卿

広橋兼秀

 女房奉書の宛所に「一位大納言とのへ」とあった人物は、蔵人頭くろうどのとうも務めたことのある広橋兼秀です。
この時期、従一位大納言として武家伝奏の要職にありました。
武家伝奏とは、朝廷と幕府の橋渡し役のような役割で、訴訟や儀式などの取次を行う役職です。
幕府の権威が落ちつつあったこの時期は、全国各地の有力武家が、幕府を通り越して独自に朝廷との折衝を行うケースも増えてきました。

なお、慶長8年(1603)に徳川家康へ征夷大将軍の内示を与えた広橋兼勝は孫にあたります。
彼もまた武家伝奏を務めていました。

西洞院時秀

 今回の副状で宛所となった「平少納言殿」は、西洞院(にしのとういん)時秀のことです。
彼は桓武平氏の流れを汲む西洞院行時の子孫で、この表では参議西洞院時長の子にあたります。
2021年9月現在のwikipediaにはページがないようですので、補任歴を備忘録として載せておきます。

西洞院時長は天文21年(1552)当時で従二位の参議。
弘治2年(1556)9月26日に出家。(59歳)

子の時秀は
天文5年(1536)2月21日に叙爵。(6歳)
天文9年(1540)9月12日元服。甲斐守に昇殿。(10歳)
天文16年(1547)3月20日に少納言・侍従。
天文21年(1552)1月5日に従四位上に叙任。(23歳)
弘治2年(1556)1月6日に正四位下。
永禄2年(1559)11月4日に左兵衛督。
永禄3年(1560)8月17日に従三位左兵衛督(29歳)

「従三位平時秀二十九 八月十七日叙、左兵衛督如元、故参議従二位時長卿男、母、天文五二廿一叙爵、六才、同九十二七元服、十才、同日甲斐守昇殿、同十三廿六任右兵衛権佐、同十一正五従五上、同十五正五正五下、同三月廿四但馬権守、同十六三廿少納言、同日侍従、同十七三廿三遠江権守、同十八三十四従四下、同廿一正五従四上、廿三才、弘治二正六正四下、永禄二十一四左兵衛督、同三八十七従三位、督如元」

『国史大系: 公卿補任中編. 第10巻』-正親町(永禄四)より抜粋

時秀はその後時当(ときまさ)と改名。
永禄9年(1566)に没しますが、世継ぎがなく西洞院家は一時断絶します。
その後、河鰭かわばた家出身で飛鳥井雅綱の孫にあたる人物が西洞院家を継ぎ、西洞院時慶と名乗ります。
彼が著した『時慶卿記』は、豊臣政権から江戸開府期の様子を窺い知ることのできる貴重な文献史料として有名です。

近衛稙家

 女房奉書で「准后(じゅごう)」とあった人物は、摂関家の近衛稙家です。
当時内大臣職にあった(上図)近衛晴嗣の父にあたります。
稙家は島津貴久の修理大夫任官に大きく絡んだ人物で、大きな利害関係があったと考えられます。

稙家は右大臣・左大臣・関白・太政大臣を歴任したいわばエリート中のエリートの家柄です。
妹は将軍家の足利義晴へ嫁ぎ、種家の娘も足利義藤(義輝)へ嫁ぎますが、畿内の動乱に巻き込まれ、たびたび近江坂本へ落ち延びます。

戦国時代末期の近衛氏は政争に敗れるなど、さらに苦境に立たされることとなります。

薩摩の内乱と近衛一族

 島津氏の祖は源頼朝に重用された惟宗忠久です。
頼朝の推挙により、摂関近衛家領で、当時南九州最大の荘園といわれる島津荘の管理職に任命されました。

時は流れ、近衛氏が島津氏と再び深い関係になるのは、戦国期の近衛政家・尚通(稙家の祖父・父)期だと考えられます。
ある時は島津氏一門が近衛尚通の「御湯始」のもてなしを受けたり、当主島津忠兼(勝久)の代には古典の贈与や官職の推挙がなされるなど、両家は関係を深めていきます。
その背景には近衛氏が金銭的な援助(合力・助成)を期待していたことは言うまでもないでしょう。

しかし、近衛政家が死去した永正2年(1505)あたりから、南九州では島津本家の家督をめぐって激しく相争う動乱期に差し掛かります。

本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!-解説04

島津一族による三州内乱時代(Googleマップを元に作図)

前記事でも軽く触れましたが、島津氏一族の内乱は、分家に当たる薩州家が優勢でした。
本家の島津勝久は、これまで激しく争っていた分家の相州家と手を結び、巻き返しに成功します。

日野町資将の薩摩下向

 摂関家の近衛氏も島津一族の内乱に無関係ではありません。
天文13年(1544)冬。
近衛家当主稙家は、朝廷の運営資金調達と、近衛邸新築費用調達のため、日野町資将を使者に立て薩摩へ派遣します。

島津一族の内乱は、薩州家にもはやかつての勢いはなく、本家の勝久もまた、家中の支持を得られず母方の大友氏を頼って豊後へ落ち延びます。
これにより、相州家の島津忠良・貴久父子が家中を統一しつつありました。

そうした中、日野町資将は薩摩に到着。
そこで島津日新(忠良)・貴久父子から金銭を引き出すことに成功し、近衛氏からは貴久の守護職斡旋の約束をしたものと考えられます。
また、貴久嫡男もこの年に元服を果たし、又三郎忠良(のちの義久)と名乗ります。

(※なお、この時期において近衛稙家は島津貴久を「嶋津三郎左衛門尉」、父である日新斎忠良を「嶋津相模入道」としている)

参集参会した島津家中にとっても京都との関係を深め、日野町一向によってもたらされた文物に触れる良い機会になったことでしょう。
日野町資将が薩摩から出国した直後に島津氏の臣へ宛てた書状からは「あの時が懐かしい。面白い遊びだった」などと回顧する一文があります。『本田薫親宛七月九日付日野町資将書状』

西国への旅を終えた日野町一行は、天文14年(1545)12月25日に帰京を果たします。

(史料1)

去年為使左大辯宰相着下候処、別馳走之段、祝着此事候、抑對貴久忠切無比類之由、於家門本望候、併国中安寧基候、弥無油断義肝要候也、穴賢ヽヽ、
  三月廿九日    (近衛稙家花押)

   本田紀伊守とのへ

『薩藩旧記雑録 前編二巻』収録

 (現代語訳)
去年使いとして日野町資将(左大弁宰相)を差し下したところ、格別のもてなしを受けたとのこと。
まことにありがたいことである。
島津貴久の忠節は他に並ぶものがないほど素晴らしい。
これからも油断することなく分国安寧のために励むことが肝要である。
あなかしく。
(推定天文15年)3月29日 本田薫親殿へ

このように近衛稙家は、懇意にする相手を島津本家から分家の貴久へ、関係を壊すことなく乗り換えることに成功します。

島津貴久の父忠良(相模入道)が、47首からなる和歌を完成させ、これを当時京都を代表する一流の文化人であった花本宗養へ贈ります。
そして宗養が近衛稙家へ贈ったのが世にいう「日新公いろは歌」です。

「日新公いろは歌写本(尚古集成館所蔵)」

「日新公いろは歌写本の一部(尚古集成館所蔵)」

京都の大乱と近衛稙家

 ところが、この時期は上方で大きな動乱が発生していた時期でした。
天文15年(1546)8月下旬以降、細川晴元と細川氏綱・畠山政国方による交戦が断続的に続き、10月には京都で土一揆の蜂起、12月には将軍足利義晴・義藤父子が近江坂本へ落ちるなど騒然たる状況でした。

足利義晴と義兄弟の関係である近衛稙家も坂本へ下り、新邸宅の造営どころではありません。
この時期の状況を日野町資将は、天文16年(1547)9月15日付の本田薫親(島津氏の臣)宛の書状で「誠に憚り多き事ながら申し上ぐる。去年よりの大乱は、いよいよ一家の段大破に及び、正体無く候(誠憚多乍申上事、従去年大乱者、弥一家之段及大破、無正躰候)」と書き送ったほどです。

天文15年(1546)12月。
足利義晴は同地で隠居を表明し、家督を子の義藤(のちの義輝)に譲りました。
少し後の年次となりますが、この図で見ると参議の下部に義藤の名が見えます。

公卿の補任年表と人事異動(天文20~23年)

公卿の補任年表と人事異動(天文20~23年)

近衛稙家、島津氏から鉄砲火薬の調合を学ぶ

 天文17年(1548)6月。
足利義晴・義藤父子は坂本から京に戻り、今出川御所に入ります。
六角定頼の仲介により、細川晴元との和議が成立したためです。

翌年の3月。
近衛稙家は鉄砲に用いる火薬の製法を、島津氏を通じて学びます。

『種子島男爵家所蔵文書(三月五日付近衛稙家書状)』(国立国会図書館デジタルコレクション 『鹿児島県史. 第1巻(1939)』

『種子島男爵家所蔵文書(三月五日付近衛稙家書状)』国立国会図書館デジタルコレクション 『鹿児島県史. 第1巻(1939)』より(P.848)

これは、近衛稙家が島津氏の臣である種子島時堯(弾正忠殿)に宛てた「鉄砲薬」に関する書状です。
良質な鉄砲火薬の調合法を学んだ近衛家は、恐らくこれを足利将軍家に伝えたのでしょう。

のちに将軍が、越後の上杉輝虎(謙信)に「鉄放薬方並調合次第てっぽうやくのかたならびにちょうごうのしだい」と題して詳しい製法を記した書状を送っています。

鉄砲薬之方并調合次第c3

鉄放薬方並調合次第c+書き下し文

関連記事:戦国時代の鉄砲のレシピ書?上杉謙信が将軍義輝から賜った古文書を解読

ところが、京都が平穏を取り戻したのも束の間、天文18年(1549年)6月には摂津国で江口の合戦が勃発。
立場を悪くした細川晴元と足利義晴・義藤父子は、再び近江坂本へと落ち、次第に三好長慶の時代へと移行します。

翌年1月にイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが上洛した際は、戦乱で荒れた京都の町を目の当たりにし、天皇への謁見を諦めたと云われています。

いくさはさらに続きます。
天文19年(1550)には中尾城の戦いがあり、東山の戦いにより聖護院・北白川・鹿ヶ谷・田中などの地が焼け落ち、天文20年(1551)の夏には相国寺の戦いにより洛中が焼かれ、京の町は騒然としました。

島津貴久の修理大夫任官

 このように、京都ではいくさが断続的に続く状況でしたが、天文21年(1552)1月、六角義賢の仲立ちにより、将軍-三好間の和睦が成立。
将軍義藤は再び京都に戻ります。

将軍の伯父にあたる近衛稙家はますます政治的活動が顕著となり、将軍への取次・御内書発給などの実務的役割も果たすようになります。
諸国大名の任官斡旋・偏諱授与のような特権を与える仲介役も行い、将軍義藤にとって大変心強い存在といえたでしょう。

今回、記事の題材とした「島津貴久の修理大夫任官」は、まさにこうした情勢の中で行われたものです。

本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!『島津家文書(六月十四日付広橋兼秀副状)』書き下し文a
本状と副状の違いを後奈良天皇奉書から比較してみよう!『島津家文書(六月十四日付広橋兼秀副状)』書き下し文b

『東京大学史料編纂所所蔵(六月十四日付広橋兼秀副状)』書き下し文

従四位下相当の修理大夫は、左京大夫さきょうのたいぶに次いで多く出された官途であり、特に九州や東北・北陸の大名が好む傾向にありました。

本宗家の島津忠兼(勝久)が民部少輔みんぶのしょうふから修理大夫に任ぜられたのが永正17年(1520)のこと。
修理大夫は島津本宗家で守護職を継いだ者が代々襲名する官途です。

貴久が忠兼(勝久)より家督を悔返しをされてより足掛け25年。
ようやく悲願が成った瞬間でした。
かつてもっとも勢いのあった薩州家島津実久でさえ、成し得ることのできなかった成果です。

当時、島津貴久は居城を錦江湾から桜島が一望できる内城へと移し、領内の地盤固めを進めていた時期でした。
もちろん修理大夫任官にかかった費用は、御礼として贈った太刀一腰・御馬代千疋のみではなかったでしょう。

貴久は、任官を仲介した近衛稙家・足利義藤はもちろんのこと、武家伝奏の広橋兼家にまで手広く金銭を贈っていたものと考えられます。
後奈良天皇の本心はわかりかねますが、もしかすると内心苦々しく思いながらも、打ち続く戦乱により荒廃した京都の町を憂い、渋々これを黙認したのかもしれません。

なお、この時期に貴久嫡男の又三郎忠良も将軍義藤から「義」の偏諱へんきを賜り、「義辰」と名を改めています。(後の義久)

※これは教えていただいた内容ですが『戦国期足利将軍研究の最前線(2011.山田康弘編.山川出版社)』によると、修理大夫などの四職大夫は太刀・馬五十貫(五十疋)、偏諱「義」の一字は太刀・馬・百貫、それ以外の偏諱は太刀・馬・三十貫が相場であるとのことです。(足利義晴期)

近衛前久の薩摩下向

 時は流れ、近衛家の当主は子の前久(晴嗣→前嗣→前久)となっていました。
彼は藤原氏嫡流の高貴な身ながら、その半生を地方で過ごしたことで知られています。
時には関東で上杉輝虎(謙信)とともに戦い、時には丹波の黒井で流寓を余儀なくされた時期もありました。

天正3年(1575)織田信長の要請により、前久は島津・伊東・相良・大友間の和睦を斡旋するために薩摩へ下向します。
島津貴久は世を去り、子の義久の時代となっていました。
先祖以来の繋がりもあったことから、前久は島津氏に歓待され、一族から犬追物や連歌・能などを楽しみます。
義久は茶壷・琉球むしろ(畳の一種)・沈香・紅糸・白糸などを贈り、前久からは「古今和歌集」を伝授します。

結果的には前久の和平斡旋は成功とはいきませんでしたが、織田-島津間の外交的な繋がりを生み出し、そうした経験が、天正8年(1580)の織田-本願寺間の和睦調停で大きな成果を生み出しました。
これにより、前久はかつての近衛家の栄光を取り戻したに見えましたが、本能寺の変とそれに絡む嫌疑によって、再び京都を離れざるを得なくなります。

その後の近衛家と島津家

 近衛前久の嫡男に信尹(のぶただ)という人物がいます。
彼も父や祖父と同じく教養豊な貴人で、特に青蓮院流の妙手として書道に定評があります。

彼もまた、中央での政争に破れ、父と同じように京都から追放された不遇な貴公子でした。
時代はすでに豊臣秀吉の治世へと移り、文禄3年(1594)から3年に渡り鹿児島の坊津へ流寓します。
彼は同地で岡左兵衛と名乗り、可因と号して一乗院の住職たちと和歌や連歌などをして過ごしました。
島津氏もこの貴公子を手厚く持て成し、京都文化と薩摩文化の交流が進みました。

信尹が京都復帰を許された後も両家の交流は続き、慶長5年(1600)に関ケ原の合戦で敗れた際には、島津氏と徳川家との和平仲介として奔走し、所領安堵を取り付けています。

江戸時代に入ると婚姻関係となり、両家の絆はますます強固なものとなりました。
2008年度NHK大河ドラマ「篤姫」では、主人公の篤姫が藩主島津斉彬の養女となり、さらに近衛忠煕の養女となったのちに、将軍徳川家定に嫁ぐという描写が記憶に新しいかもしれません。

このように、幾多の時代の荒波に揉まれながらも、両家は絆を深めました。
近衛氏は財政面で大きく救われ、島津氏は近衛氏のおかげで朝廷との繋がりを最大限利用できたことがお分かりいただけたかと思います。

残念ながら広橋兼秀や後奈良天皇の本心まではわかりかねますが、前編からの議題であった「薩摩と京都、遠く離れた2つの都市で、おおよそどのようなことがあったのか」について、御理解頂けたのならば嬉しい限りです。
末筆ながら、文章力が至らない点については申し訳なく思います。

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実際に解読した古文書の記事集

参考文献
久留島典子,五味文彦『史料を読み解く 1.中世文書の流れ』山川出版社
山本博文,堀新,曽根勇二(2013)『戦国大名の古文書<西日本編〉』柏書房
鹿児島市史編さん委員会(1971)『鹿児島市史. 3』鹿児島市
鹿児島県(1939)『鹿児島県史. 第1巻』鹿児島県
林匡(2005)「戦国期の大隅国守護代本田氏と近衛家」,『黎明館調査研究報告』, 18,1-34.
田村省三(2011)「島津家と近衛家:京都から薩摩への文化伝承:第三十八回Neesima Room企画展公開講演会」,『同志社談叢』, 31,267-300.
池上裕子,池享,小和田哲男,黒川直則,小林清治,三木靖,峰岸純夫『クロニック戦国全史』(1995)講談社
甲斐保之,有川和秀,伊地知南,小野郁子,加治木郁夫,福元静男,花薗正志(2004)島津義久と国分隼人-舞鶴城築城四百周年-,国分・隼人郷土史研究会
神宮司庁(1968)『古事類苑.第17.官位部第一』吉川弘文館
神宮司庁(1968)『古事類苑.第17.官位部第二』吉川弘文館
林英夫(1999)『音訓引 古文書大字叢』柏書房
望月二郎(1899)『国史大系: 公卿補任中編. 第10巻』経済雑誌社
坂田桂一(2014)『公卿補任図解総覧』勉誠出版
など

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