こんばんはー。
石山軍記の4話目です。
前回は山科本願寺が焼かれるあたりまでを書きましたが、それからどうなったでしょうか。
今回で第一章は完結です。
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第一章 摂州石山本願寺縁起(四)
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を背に緘(から=絡)げ着き、大薙刀を馬手に引き下げ、弓手には上人の馬の口を取り、裏門より出んとすれば、寄せ手の大軍(は)落人(おちうど)を逃すなと呼ばって群がり来るを、 ※1頼慶左右へ颯(さっ)と退きたりける頼慶得たりと上人の御馬を進め、追い来る敵を斬り払い、引き返して薙ぎ倒し、道を求めて落ち行きけり。
※1 頼慶 (らいけい)とは下間頼慶のこと。
詳細は不明だが、忠義の臣だったという。
五~六騎(を)薙ぎ落とせば、誰が命を惜しまざらん。
このこと早く諸方に聞こえければ、上人の御難を救わんとて信心の門徒ら百姓町人の差別なく、あるいは竹槍、あるいは鋤鍬なんど(等)引っ提げつつ、ここに二十人かしこに三十人寄り集まり、追い来たる敵を支え防ぎて上人を守護し、 ※2三島江のほとりまで落ち(延び)たり。
※2 三島江 (みしまえ)は大阪~京都の国境にある淀川を行き来する港のこと。
かつては暴れ川だったため淀川に橋はなく、渡船業が盛んだった。
ここに大坂なる ※3野田・福島の門徒六百余人(は)、この由を聞くと等しく御迎えの為(に)参着し、舟にて上人を野田の御堂へ入り参らせ、敵の多勢を引き受けて一日一日夜戦(やたたか)ううちまた、河内の門徒一千余人(が)走り加わり、勢いますます強くなれば、 ※4佐々木の一党、日蓮宗の僧徒ら(と)戦い、疲れて敗走し、野田・福島には敵一人もあらずなりしかば、上人斜めならず喜び、これ全く門徒の僧俗身命を捨て敵を支えしゆえなりとて、夫婦に褒美の御言葉を賜れり。
※3 野田・福島 (のだ・ふくしま)は大阪市福島区の地名。
中世の大阪は現在とはまるで違う地形をしていた。
これは以前作成した野田・福島の戦いの布陣図だが、ここは戦略上重要な拠点だった。
なお、野田砦も福島砦も正確な位置までは不明である。
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※4 佐々木の一党とは六角定頼勢のこと。
先祖が佐々木泰綱だったことから、佐々木六角氏と呼ばれることもあった。
六角定頼の略歴については前回の記事をご参照いただきたい。
さるほどに上人は山科の御堂炎上に及びしかば、摂州石山の御堂を修造せられ、これを本山と定め開山の御真影を安置し、いよいよ広く教導し給うほどに、四方の道俗(は)日夜朝暮に参詣礼拝して繁盛(すること)限りなしときに、去る大永七年(1527)当今、後奈良院 ※5御受禅ましましけれども、応仁の乱後続いて四海干戈(日本中が動乱になることか)を動かし、片時も穏やかならざるがゆえに、また御即位の大礼行われず、十ヶ年の間事、延引に及びたれば、周防国(山口県)の太守・ ※6大内義隆その料を調進せらるといえども、不足なりしほどに証如上人いまだ若年におわせしがとも、本願寺よりこれを補い奉る。
※5 御受禅(ごじゅぜん)とは先帝から帝位を譲られて即位すること。
※6 大内義隆は周防国の戦国大名。
京でも武名を轟かせた父・義興の跡を継ぐ。
周防国を中心に西国一の勢力に成長させ、山口独自の文化を築き上げた。
毛利元就らを従えて山陰の尼子晴久を攻めるが、味方の裏切りに遭い大敗。
以後は家中の分裂を招き、大寧寺の変で自害した。
よって、速やかに大礼周備す。
これ天文五年(1536)二月二十六日にてまことに天下未曽有の忠功というべし。
これによって、かたじけなくも二品親王の号・宣下の勅書(天皇からの命令書)を賜う。
しかるに、証如上人早逝し給うにより、第十一代の法繼(ほうけい)を顕如上人と称し、御諱(おんいみな)は光佐。
すなわち、証如上人の御嫡男なり。
顕如(けんにょ) (1543~1592)
証如の嫡男で浄土真宗本願寺派第十一世宗主。
織田信長と敵対し、11年にも及ぶ石山合戦を繰り広げる。
三好三人衆や朝倉義景、武田信玄、さらには毛利家などと手を組み信長を苦しめた。
天正8年(1580)に信長と和睦し、大坂から退去。
顕如の没後、本願寺の教団内部で対立が激化し、西本願寺と東本願寺の二つに分裂した。
今年加賀国(石川県)の末寺の僧侶
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門徒のともがら、二万余人一揆を企て、所々の国郡を切り取り、本願寺の領地と為事(?)おびただしい越中(富山県)の国主・ ※7畠山修理太夫もこの一党の為に本国を攻め破られ、江州(滋賀県)に敗走し、 ※8佐々木承禎を頼み蟄居せられしほどに、今は加賀・能登・越中(石川県と富山県)の三ヶ国一円に(=が)本願寺の所領となり、年々、金銀米銭を石山に運送しければ、本願寺の勢い日々に強し。
※7 畠山修理太夫 (はたけやましゅりのだいぶ)とは能登畠山家中興の祖・畠山義総のことを指すが、正しくはその次男にあたる畠山義続(左衛門佐)だと思われる。
ちなみに越中の国主ではなく能登の国主。
著者の勘違いなのかは不明。
※8 佐々木承禎 (ささきじょうてい)とは先ほど紹介した六角定頼の世継ぎで六角承禎(義賢)のこと。
父と同じく足利将軍家を補佐するが、嫡男の奇行や家臣団の謀叛、さらには従属していた浅井長政に敗れるなど徐々に家運が衰退。
数年後には織田信長に攻められて甲賀に逃れるも、旧領を回復することなく病死した。
門徒らはこの勢いに乗じ、越前(福井県)をも切り取らんと国主・ ※9朝倉教景入道宗滴と挑み、戦うこと既に三年に及び、北国の動乱甚だしきがゆえに、弘仁二年(正しくは弘治二年=1556)京都将軍・義輝公より御教書(みきょうしょ=えらい人の書状)(が)下り、両国を扱い(和議のこと)給い、しばらく合戦は止めたりけり。
※9 朝倉教景入道宗滴 (あさくらのりかげにゅうどうそうてき)は越前朝倉一門の武将で、朝倉家の政務・軍事を一手に担った。
一向一揆との死闘のほか、京や美濃(岐阜県)でも武名を轟かせ、朝倉家繁栄の礎を築いた。
本願寺九代十代打ち続き、両度宝祚(ほうそ=皇位)の補功大いなりといえども、諸国の擾乱(じょうらん=入り乱れ騒ぐこと)止むときなし。
よって、その感状を賜らず、ここにおいて去る弘治元年(1555)、後奈良院奉書を顕如上人に賜り、永禄三年(1560)十二月十五日、従三后の宣下あり。
顕如上人は天文十二年(1543)の誕生にして、母公は源中納言重親卿の息女なり。
今永禄三年(1560)は十八歳なれども、官位ますます昇進し、繁昌並びなし。
もっともその昔、亀山帝の御時、※10紫震殿を拝領せしかば、御堂は紫震殿に模形し、且つ当連中は管領・細川右京大夫晴元の息女・ゆゑ。
本願寺の威勢殊に強大なり。
※10 紫震殿 (紫宸殿=ししでん)は内裏の正殿で、即位式など公的な行事が行われる場であった。
細川晴元 (1514~1563)
細川澄元の子。
父が細川高国との争いに敗れ、失意のうちに没したのちに家督を相続。
三好元長の力を借りて父の仇を討つものの、その後の路線を巡って元長と対立。
一向一揆や法華宗を扇動するなどして元長を討つ。
しかし、やがて元長の子・長慶に敗れて権力を失い、仇敵だった足利義晴・義輝父子や六角定頼らと手を結ぶが目的は果たせなかった。
晩年は普門寺城に幽閉される。
彼の死後、細川京兆家がかつての威勢を取り戻すことはなかった。
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同じく五年(1562)の秋、またもや加州(石川県)の門徒ら朝倉の下知に背き再び合戦始まりしかば、京都の通路を塞ぎて米穀の運送なし難し。
よって、上方はなはだ困却に及びしにより、将軍・義輝公このたびは ※11大舘左衛門佐、 ※12武田治部少輔両人をもって上使とし、御教書(みきょうしょ=えらい人の書状)を北国に下し、朝倉と本願寺の闘戦を鎮め、且つ和睦相違あらざる証に、 ※13朝倉義景が息女をもって顕如上人の嫡男・茶々丸に娶すべき旨、諮問せられしかば、双方上意に応じ謹んで婚姻の盟約を成し、ついに両国の合戦(は)鎮まり朝倉と本願寺と唇歯(しんし)の因を結び、相互いに急難を助け救うべしと約束し、無二の仲とはなりにけり。
※11 大舘左衛門佐 (おおだちざえもんのすけ)とは幕臣の大舘晴光のこと。
※12 武田治部少輔 (たけだじぶのしょうゆう)とは若狭の守護大名・武田義統(よしむね)のこと。
武田信玄とは同族。
むしろこちらのほうが本家に近い。
※13 朝倉義景が息女をもって顕如上人の嫡男・茶々丸に娶すべき旨、諮問せられしかば、双方上意に応じ謹んで婚姻の盟約を成し・・・とあるが、これは真実である可能性は低い。
当時は朝倉家と本願寺は泥沼の戦いを繰り広げていた時期であり、両家の関係が良好になったのは10年近くのちに織田信長と戦う時である。
朝倉義景 (1533~1573)
越前朝倉家の戦国大名。
武名を轟かせた朝倉宗滴に支えられ、越前に一乗谷文化を築き上げた。
手広く外交を展開し、足利将軍家をはじめ細川京兆家、六角家、さらには武田信玄とも交友を深めた。
最愛の嫡男の死や側室に溺れたことで政務・軍事への関心が薄れ、しだいに人心が離れていき、のちに対立した織田信長によって滅ぼされた。
後年に至って織田信長と本願寺確執におよび、十余年の合戦はこの一事より発生せり。
茶々丸は永禄元年の誕生にして今年五歳。
後に教如上人と申せしなり。
その初め
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本文(14ページ目)
織田朝倉の両家は共に公方(将軍)の武臣・ ※14武衛斯波義廉の老臣なりしが、去る応仁の頃、山名細川乱を為し時、朝倉は治部大輔義敏に心を合わせ、主君・義廉に叛き、公方家の味方に参り、ついに越前の守護職を奪い、公方へ直参し、押して越前の国主となり、朝倉弾正忠敏景と名乗り、諸侯の中に連なれり。
※14 武衛斯波義廉 (ぶえいしばよしかど) 斯波義廉のこと。
武衛というのは兵衛府(ひょうえふ)職の唐名(中国風にした呼称)になる。
他の例では
- 内裏(だいり)→禁中(きんちゅう)
- 摂政(せっしょう)→家宰(かさい)
- 関白(かんぱく)→太閤(たいこう)
- 摂政関白(せっしょうかんぱく)→執政(しっせい)
- 近衛大将(このえだいしょう)→幕府(ばくふ)
- 兵衛府(ひょうえふ)→武衛(ぶえい)
- 馬頭(うまのかみ)→典厩(てんきゅう)
など。
ちなみに時代劇でおなじみの水戸黄門(徳川光圀)は、水戸が地名で、中納言の唐名が黄門にあたる。
つまり、水戸中納言という意味だ。
織田は代々義廉の子孫を主君と仰ぎ、尾州清州(愛知県)の城にいて、その身執権として尾州の乱を切り鎮めけり。
これによって織田にては朝倉を逆心の家なりと嘲り、朝倉家にては織田を陪臣(ばいしん=家来のまたその家来)と侮り、両家確執や止まざりけり。
然るに近年信長美濃(岐阜県)の斎藤を攻むること急なるによって、斎藤(は)越前の朝倉に助力を乞い、朝倉これに一味して織田と合戦に及ぶこと数多なり。
かくしほどに織田と朝倉怨敵となり、互いに攻め滅ぼさんとす。
しかるに、今度本願寺(は)朝倉と縁を結びければ、北国の門徒らは朝倉に力を添え織田方を憎み、両家合戦あるときは必ず門徒の一揆ら(が)横槍を入れ織田の妨げをなしければ、元来意地強き信長(は)心中に甚だこれを憤り、朝倉を滅ぼしてのち本願寺を打ち潰し、 ※15かの宗門を破滅なし、今の憤りを晴らさんものと、いまだ若年のときより心に恨みを含まれしにて、一朝一夕の事にはあらざるなり。
(次回につづく)
※15 かの宗門を破滅なし とあるが、真実はそうでもないように思われる。
信長に敵対せず中立を保つ一向宗の寺々は攻撃を受けず、所領を安堵されているからだ。
信長は宗教勢力に対しては、敵対する者のみ徹底的に破壊する傾向にあった。
ご覧くださりありがとうございます。
ついに顕如の時代まできましたね~!
真実じゃないこともちらほら書かれてるけど、古文書なら割とよくあることです^^
次回からは次の章に移りまして、「足利将軍家盛衰ならびに顕如上人門跡に任ぜらる」からです!