今回は元亀3年(1572)11月20日に、織田信長が上杉謙信へ宛てた書状を解読します。
文章量があまりにも多いため、この史料は複数回にまたがってご紹介します。
前回と同様、どの字も典型的なくずし方をしているため、古文書を学習中の方は良い腕試しになるかもしれません。
- 11月20日に織田信長が上杉謙信へ宛てた書状 1(当該記事)
- 11月20日に織田信長が上杉謙信へ宛てた書状 2
- 11月20日に織田信長が上杉謙信へ宛てた書状 3
この書状の時代背景
元亀3年(1572)の秋から冬にかけて、織田信長と将軍足利義昭の外交関係は完全に破綻しました。
江北の陣中から岐阜へ帰った信長は、足利義昭へ「異見十七ヶ条」という弾劾状を送りつけます。
これにより、畿内で信長に協力してきた松永久秀らの諸勢力は大きく動揺します。
北近江では浅井・朝倉両家と交戦中で、予断を許さない状況でした。
そんな中、戦国最強とも謳われたあの大名が、信長への敵意を露わにし、攻め込んできたのです。
武田信玄肖像(高野山持明院蔵)
それが甲斐の虎と恐れられた武田信玄です。
10月、信玄は大軍を率いて遠江に進撃し、徳川家康を攻撃。
11月には東美濃の国衆遠山氏の内乱に乗じ、岩村城を味方に付けます。
当時岩村城の主は幼き御坊丸でした。
彼は信長の五男として生まれ、遠山氏の養嗣子となっていました。
しかし、御坊丸は岩村城が武田方に属したことにより、運命を翻弄されることとなります。
捕らえられて人質として甲斐へと送られてしまったのです。
信長の怒りと悲しみは、相当なものだったでしょう。
今回の書状は、このような時代背景で出されたものです。
岩村城が武田氏の手に落ちたのが元亀3年(1572)11月14日のこと。『鷲見栄造氏所蔵文書・古今消息集』など
解読する文書は、11月20日に織田信長が越後の上杉謙信に宛てたものです。
信長が上杉謙信へ宛てた書状を解読
(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写(真田宝物館所蔵)
長い文書ですので、当記事では1行目から20行目までを解読します。
どの文字も基本通りのくずしをしているため、古文書を学習中の方は良い腕試しになるかもしれません。
釈文
(a)
就越甲和与之儀、被加
上意之条、同事ニ去秋以使
者、申償之処、信玄所行寔
前代未聞之無道、且者不知
侍之義理、且者不顧都鄙之
嘲哢次第、無是非題目候、
一、信玄既如此之上者、以専柳斎如
誓約、永可為義絶事、勿論候、
自其方両通之罰文加被見候、
先書之御返答者、自他不入
子細候、今度改而被仰越候一
儀専用候、信長与信玄間之事、
(b)
御心底之外ニ幾重之遺恨
更不可休候、然上者、雖経未
来永孝候、再相通間敷候、以誓
詞蒙仰候趣と愚意候て(候ての部分は「令」かも)倅
琢間、則翻牛王、血判長与一
顕眼前候、貴辺与信長申
談信玄退治不可移年月候、
行等之儀、切々可申承候、
この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)
『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)
補足
ここでは難しい表現や紛らわしい字を、補足という形で説明させていただきます。
古文書解読に関心のある方はご覧ください。
(a)
1行目の「就越甲和与之儀、」
今回の古文書も当然のように返読文字が入ります。
読む順としては”越甲和与之儀”と読んでから”就”と返ります。
和与とは和睦のことです。
越とは越後国、つまり上杉謙信を意味しています。
同じように甲とは甲斐国なので、武田信玄を指します。
読み下すと「越・甲(えっこう)和与の儀につきて」となります。
即ち「上杉殿と武田殿の和議の件について」という文意になります。
1~2行目の「被加上意之条」
“被”と”加”はともに代表的な返読文字です。
“上意”からまず読み、”加”→”被”と順に返り、最後に”之条”と読みます。
織田信長からして上意とは、将軍足利義昭の意向を意味しています。
加などの動詞は、だいたい返読します。
被は古文書では必ず出てくる文字で、受け身を意味しています。
今後も頻繁に登場するため、覚えておくと良いでしょう。
“被加”で「加えられ」となりますが、今回の文では「加えらるる」と読むほうが自然です。
すなわち、「上意を加えらるるの条」となります。
2~3行目の「去秋以使者、申償之処、信玄所行寔」
「去秋」の”去”の字は、”尤”に似ていますが、尤の場合は点がつくので判別は可能です。
「以」は返読する文字のため、「去秋、使者を以て」と読みましょう。
「処」で”~のところ”と読みます。
「寔」は一字で”まこと”と読み、現在の誠と同じ意味です。
昔はこちらの字の方がよく用いられました。
読み下すと「去秋、使者を以て申し雇うの処、信玄の所業誠に」となります。
つまり「昨年秋に武田信玄へ使者を派遣したところ、信玄の行いはまことに」という文意になります。
4~5行目の「且者不知侍之義理」
「且者」で”且つは”と読み、何かを補足する場合に用いられます。
者は仮名文字としても頻繁に登場しており、”~は”といった助詞としてよく用いられました。
明治の教育改正によって、はを指す文字は「波(ひらがな)」と「八(カタカナ)」の二字に絞られ、者(は)の表現は廃れてしまいました。
「不」などの有り無し多い少ないといった分量をあらわす単語も、返読文字になる場合がよくあります。
「不知」と書いて”知らず”と読みます。
すなわち「かつは侍の義理を知らず」となります。
5~6行目の「不顧都鄙之嘲哢次第」
「不」が例に漏れず返読します。
ひらがなの”ふ”に似た字なのは、これが元の字だからです。
「不顧」と書いて通常は”顧みず”と読むのですが、前後の文脈を考えて”顧みざる”と読んだ方が自然です。
都鄙(とひ)という表現はあまり聞き慣れない言葉ですが、都会と田舎を指します。
戦国時代の外交文書では、都鄙という単語がたびたび見受けられます。
「之」と「者」は非常によく似たくずしをしていますが、上に少し点が入る傾向にあるのが「之」です。
「者」はひらがなの「を」に似たくずしをする場合が多いです。
「尤」・「去」も似たくずしをしているので注意が必要です。
「都鄙の嘲弄を顧みざるの次第・・・」つまり、「都会でも田舎でも嘲哢されているのを憚らない始末なので」という意味になります。
7行目の「信玄既如此之上者、」
「如此」で「かくの如き」と読みます。
江戸時代の大衆小説などでは「斯くの如き」と記されることもあります。
「如」はひらがなの”め”と同じくずしをしていますね。
これは字母が「女」だからで、頻出する字のため、口の部分が省略されるようになったと考えられます。
「上者」これも”者”が助詞になっていますので、「~の上は」と読んでおきましょう。
すなわち「信玄既にかくの如きの上は」となり、「信玄がこのように露骨に敵意を露わにしてきた上は、」という文意になるでしょう。
7~8行目の「以専柳斎如誓約、永可為義絶事、」
専柳斎は人物名です。
詳しくはわかりかねますが、山崎秀仙という儒学者で、当時上杉謙信の使者として、織田信長と外交交渉にあたっていた人物です。
戦国時代の外交は、武将以外にも、教養があって口が達者な僧侶・儒学者が交渉に赴く場合もありました。
「以(もって)」・「如(ごとく)」・「可(べく)」・「為(たる)」も返読文字で頻繁する字ですので、覚えておくと良いでしょう。
「為」が”ゐ”に見えるのは、この字が字母だからです。
この場合、「専柳斎を以て誓約の如く、永く義絶たるべき事、」と読みます。
つまり「山崎専柳斎に誓約した通り、永久に信玄と義絶することは」という文意になります。
9行目の「自其方両通之罰文加披見候、」
「自」は返読文字で、”~より”と読みます。
「加」も返読文字なので、「披見を加え候」と読みましょう。
ひらがなの”か”に見えるのは、これが字母だからです。
「候」は書ききれなかったのか、横にはみ出てしまっているので注意が必要です。
罰文というのはいわゆる起請文(誓紙)の一部のことです。
起請文とは、神々の前で誓約する内容を書き記した文書のことで、戦国時代には大名同士が固い誓いをする際に交わされました。
天正十年十月二十四日徳川家康発給起請文+釈文
ここで出てくる罰文というのは、「前書き」と「神文(罰文)」によって構成されているうちの、「神文(罰文)」部分になります。(この文書では右、此むねそむくにおいてハ、以降の文)
後に述べる「牛王(ごおう)を翻し」という表現は、起請文は護符の裏に書くのが決まりだったため、「宝印を翻す」または「牛王を翻す」と表現されました。
関連記事:戦国時代の起請文とは 意味や定番の書き方は
読み下すと「其の方よりの両通の罰文は、披見を加え候。」つまり、「上杉殿から頂いた二通の起請文(誓紙)の罰文を拝見しました」という文意になります。
11行目の「今度改而被仰越候一儀専用候、」
「改而」の而は助詞で、~してという形で用いられました。
者=~は、江=~へ 与=~と と似たような使い方です。
この場合は”改めて”と読みます。
「被仰越候一儀」ですが、「被(ラレ)」が返読文字となっています。
この場合は、「仰せ越され候一儀」となります。
つまり、「このたび改めて仰せ越され候一儀は、専用に候。」となります。
訳すのがやや難しいですが、「(さきの書状に対する返事は)次の機会に必要になったときに、改めて相談しましょう。」と私は語訳しました。
2行目の「更不可休候、」
これは「不」と「可」が二つ続けて返読文字となっています。
“不可有”と書いて”あるべからず”と読みますよね。
ここでは「更に休むべからず候。」と読み、「遺恨が重なり続けて休む(止まる)暇がない」といった意味でしょう。
「不」がひらがなに見えるのは、これが字母だからです。
下の「可」と字が繋がっているので注意しましょう。
2~3行目の「然上者、雖経未来永孝候、」
まず、最初の三文字は「然る上は」と読みます。
以降の文がやや難解かもしれません。
「雖(イエドモ)」が少し特殊です。
この字が入る場合、候で文が終わらず「~と候といえども、」と文が続きます。
この場合は、「未来永孝(劫)を経る候と雖も」となります。
読み下すと「然る上は、未来永劫を経る候といえども」となります。
3~5行目の「以誓詞蒙仰候趣と愚意候て啐啄間、」
「以(モッテ)」は返読文字です。
誓詞は先に述べた起請文のことで、前半を読み下すと「誓詞を以て仰せ蒙る趣きと」となります。
「仰」が”作”と似たくずしでややこしいですが、前の字が「蒙」なので、そこから答えを導き出しましょう。
「愚意」とは信長自身の意見を遜って表現した形です。
「啐啄」は”さいたく”と読むそうですが、私には意味がわかりませんでした。
“啐啄同時(そったくどうじ)”という禅用語が関係しているのでしょうか。
ここの意味がわかりかねるため、「愚意候て倅琢の間」ではなく、「愚意令(せしめ)倅琢の間」と読むべきなのかもしれません。
私の勉強不足で申し訳ありません。
5~6行目の「則翻牛王、血判長与一顕眼前候、」
「則」はすなわちと読み、「即ち」と同じ意味です。
「翻牛王(ごおうをひるがえし)、血判」とは、どちらも起請文(誓紙)を取り交わす際の用語で、護符の裏に誓約内容を書くことから「宝印を翻す」「牛王を翻す」と表現されました。
神々に誓う神聖な儀式のため、血判を添えるのが習わしでした。
翻しは動詞のため、返読文字となります。
「長与一」こちらは人物名で、上杉謙信の使者として信長と面会した長景連(ちょうかげつら)のことです。
のちに織田信長と上杉謙信が対立した際、同族の長連龍に攻められ討死します。
読み下すと「則ち牛王を翻し、血判は長与一の眼前に顕わし候。」
つまり、「起請文の例に倣い、護符を裏返して長景連の眼前で血判を捺しました」という文意になります。
8行目の「行ホ之儀、切々可申承候、」
「行」一文字で”てだて”と読みます。
ホのようみ見える字は「等」の異体字です。
古文書にはこのような異体字や旧字もよく出てくるため、覚えておく必要があります。
他に代表的な異体字は「杦=杉」、「刕=州」、「㐂=喜」などがあります。
読み下すと「てだて等の儀は、切々と申し承るべく候。」となり、「作戦等については、今後もお互いに連絡を密にしましょう。」と解釈して良いでしょう。
原文に釈文を記してみた
(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+釈文a
(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+釈文b
書き下し文
(a)
越甲和与の儀に就きて、上意を加えらるるの条、同時に去秋、使者を以て申し雇うの処、信玄の所業誠に前代未聞の無道、且つは侍の義理を知らず、且つは都鄙の嘲弄を顧みざるの次第、是非無き題目にて候。
一、信玄既に此の如きの上は、専柳斎(山崎専柳斎)を以て誓約の如く、永く義絶たるべき事、勿論に候。
其の方よりの両通の罰文は、披見を加え候。
先書の御返答は、自他入らざる子細にて候。
今度改めて仰せ越され候一儀は専用に候。
信長と信玄間の事、
(b)
御心底の外(ほか)に幾重にも遺恨更に休むべからず候。
然る上は、未来永劫を経る候といえども、再び相通じ間敷く候。
誓詞を以て仰せ蒙り候趣と愚意候て(ここの部分「せしめ」かも)倅琢の間、即ち牛王(ごおう)を翻し、血判は長与一(長景連)の眼前にあらわし候。
貴辺も信長と申し談ぜば、信玄退治は年月を移すべからず候。
てだて等の儀は、切々と申し承るべく候。
原文に書き下し文を記してみた
(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+書き下し文a
(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+書き下し文b
現代語訳
これまで上杉・武田間の和睦の件について、公方様(足利義昭)のお考えの通り周旋してきましたが、昨年秋に武田信玄へ使者を派遣したところ、信玄の行いはまことに前代未聞の無道であり、侍の義理も知らず、都会でも田舎でも嘲哢されているのを憚らない始末なので、もうどうしようもありません。
一、信玄がこのように露骨に敵意を露わにしてきた上は、山崎専柳斎に誓約した通り、永久に信玄と義絶することは勿論のことです。
上杉殿から頂いた二通の起請文(誓紙)の罰文を拝見しましたが、さきの書状に対する返事は、私も上杉殿も不要です。
次の機会に必要になったときに、改めて相談しましょう。
信長と信玄の関係は、あなたがお考えになっている以上に幾重にも渡る遺恨が重なり続けています。
従って、今後は未来永劫武田家と外交関係を持つことはないでしょう。
あなたから頂いた起請文(誓紙)の内容と、私の考えは一致しているので、牛王(ごおう)印の裏を返して、私の血判を貴殿の使者である長景連の面前で捺しました。
当家と上杉家が手を合わせれば、信玄退治などそれほど年月を経ずに達成できるでしょう。
作戦等については、今後もお互いに連絡を密にしましょう。
信長は武田・上杉両家と友好関係だった
信長は美濃を攻略中の時代から、武田信玄・上杉謙信とは交流をもっており、緊密な関係にありました。
武田信玄は、信長と敵対している斎藤龍興からも友好な関係を求められていましたが、美濃での戦いで信長が優勢になってくると、織田家と同盟を結ぶ外交路線に切り替えます。
(史料1)
信玄と義棟(=斎藤龍興)の儀につき、去年以来御馳走の段、承悦の至りに候。
早々専使をもって申すべき処、国の儀かれこれ取り紛れ、遅々所存の外に候。
只今汾陽寺を越境に候。
万端御指南簡要に候。
仍って剃刀十双、緞子二端進献候。
なお延永備中守申し入れるべく候。
恐慌敬百。
(推定永禄八年)十一月七日 義棟
拝進 恵林寺
侍衣閣下(=快川紹喜)
『十一月七日付け斎藤龍興書状(武田神社所蔵文書)』
同じ時期、信長は直江景綱を通じて上杉謙信とも誼を通じていました。
詳細はわかりかねますが、どうやら永禄7年(1564)の時期に、信長の養子を迎え入れる話があったほど、良好な外交関係だったようです。
この話はいつしか有耶無耶になったと見られ、結局信長の息子は上杉謙信の養子にはなりませんでした。
(史料2)
(追伸部分のみ)
追って申し入れ候。
そもそも御誓談の条々、忝き次第に候。
殊に御養子のため、愚息を召し置かるるの旨、誠に面目の至りに候。
何時に於いて、路次より様子を進み置くべく候。
向後は、いよいよ御指南を得、申し談ずるべく候。
これ等の趣き、御披露本望たるべく候。
恐々謹言
十一月七日 信長(花押)
直江大和守(景綱)殿
『(永禄七年)十一月七日付け織田信長書状(真田宝物館所蔵)』
関連記事:信長が上杉輝虎(謙信)に養子を出そうとしていた事実
信長が足利義昭を奉じて上洛した後も、上杉・武田両家とは良好な外交関係を持っており、たびたび両家へ和睦の仲裁を行っています。
足利義昭は武田・上杉間の和睦に関心を寄せていた
2020年度のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、将軍足利義昭が信長以外の大名からも支援されたいと願う描写がありましたね。
確かに、上洛当初の義昭の敵は阿波三好衆であり、彼らを攻撃してもらえるように、毛利氏などにたびたび御内書を送っています。
関連記事:【御内書乱発】将軍・足利義昭が吉川元春へ宛てた書状から信長との関係を考える
それ以外にも義昭は、薩摩の島津氏や豊後の大友氏、越後の上杉氏、甲斐の武田氏にも御内書を送付しており、かつての足利幕府の権勢を取り戻したいという意図が見受けられます。
(史料3)
越甲の御間和与然るべきの旨、去春上意を加えられ候き。
その筋目を以て、只今使節を差し下さるるの条、此の方より両人に相添え進らせ候。
貴辺の儀は、多年申し通じ候。
信玄もまた等閑なく候。
その次第申し旧り候。
然りにして数年の御執り相い、見徐申すべき事、外聞実儀いかに候間、遠慮を顧みず啓達し候。
上意の処、黙止されがたく候。
この節一和を遂げられ候□□□、
余に尽期なく候。
旁万事を投げうたれ、和談に於いては、珍重たるべく候。
越甲共に以て公儀に対せられ、連々御粗略無く候。
同じくは内外共に純熟あって天下の儀、御馳走願うところに候。
なお友閑斎(=松井友閑)佐々権左衛門尉申すべく候。
恐々謹言
(元亀三年)七月二十七日 信長(花押)
不識庵(=上杉謙信)
進覧之候、
『(元亀三年)七月二十七日付け織田信長書状(保阪潤治氏所蔵文書『筆陳 二』)』
これは今回記事にしている文書のわずか4か月前の史料です。
信長が上意、つまり足利義昭の意向を受けて、上杉・武田両氏の仲裁を行ったときのものです。
義昭がこの時期になっても、なお両者の和睦の仲介に熱を入れるのはなぜでしょうか。
信玄は2年前の元亀元年(1570)5月に、駿河国で万疋の地を進上すると申し出て、義昭の歓心を買い、この元亀3年(1572)5月には義昭に誓書をすすめ、承認を受けています。
しかし、元亀3年(1572)正月28日付けの武井夕庵(信長側近)宛の書状では「謙信は信玄・北条氏政との和平を熱望しているが、思うところがあって自分は謙信との和睦は応じない」としています。『武家事紀』
謙信側では、信長と朝倉義景を証人として講和しようとしていると観測していたようで、それぞれに外交のすれ違いが生じているようです。『(元亀三年)四月十六日付け北条高広宛上杉謙信書状(山城妙満寺文書)』
義昭の真意はわかりかねますが、この必要以上の講和の斡旋で信長を困惑させ、いずれも相互に不信感があるわけですから、交渉が成功するはずがないでしょう。
実はこの時期、信玄は朝倉義景が仲介するならば和約に応じても良いとの難題を持ち掛けていました。
朝倉義景は信長の宿敵です。
つまり、信玄は無理な問題を敢えて持ち掛けることでこの問題を長引かせ、しかも和睦できないのは朝倉家にも関係があると下駄を預けているのです。
この元亀3年(1572)7月下旬には、既に信長と足利義昭間で外交軋轢が生じていました。
信長は江北の浅井氏討伐に出陣していますが、浅井長政は小谷山城に籠って持久戦の構えを見せています。
朝倉義景も浅井氏支援のために木ノ本あたりに布陣したまま動かず、戦況は膠着状態でした。
越中では一向一揆や椎名氏らが挙兵し、上杉謙信を苦しめている状況で、信玄としては一気に勢力を伸ばす大きなチャンスであったと考えられます。
元亀3年(1572)夏の江北の陣
元亀3年(1572)7月。
浅井氏討滅を目論む織田方にとって、最前線は近江横山城でした。
ここに部将・木下秀吉を入れ置き、攻撃の機会を窺っていました。
同年3月に信長は大軍を率いて江北を攻めていますが、浅井長政は城から打って出なかっため、木戸・田中の両城を築いたのみで兵を返しています。
小谷山城が孤立を深めていたこの時期、本願寺顕如が浅井氏へ宛てた書状が遺されています。
(史料4)
久しく無音せしめ候。
其の表長々籠城の衆、退屈たるべく候。
然りといえども、この筋肝要の儀候間、各越度無き様下知を加えらるべく候。
ここもと方々調略の子細候条、追って申し越すべく候。
(朝倉)義景近日出馬有るべき由に候。
いよいよ示し合わさるべき事専用に候。
就中鉄炮薬三十斤これを進め候。
所在にまかすばかりに候。
委曲上野法眼申し述べ候間、筆を抛候なり。
あなかしこ
(元亀三年)六月三十日 顕如
浅井備前守(長政)殿
『石山本願寺日記』下巻
同年7月19日。
浅井長政討伐の為、初陣の嫡男・信重(信忠)とともに岐阜を出陣。
21日には小谷城下に迫り、方々を放火します。
しかし、長政は挑発に乗らず、朝倉義景の援軍を待つ戦術を取りました。
実はこの出陣を前に、信長はこうなることを予想していたのか、かねてより用意していたある物を用い、小谷山に籠る浅井氏と朝倉氏の分断を図ります。
ここで下記の史料をご覧ください。
(史料5)
来たる七月七日、郷北(=江北)小谷表に至って相働き候。
即ち刻を違えず老若を撰ばず、打ち立つべく候。
仍って取出を相構え候間、鍬(すき)鍬(くわ)以下を持たしむべく候。
其の為に廻文を指し遣し候。
果して朝倉浅井と一戦に及ぶべく候。
時節を見合わせて伐り懸け討ち果たすべく候。
仍ってくだんの如し。
元亀三
七月朔日 信長
松永弾正(久秀)殿
郷南
国衆中
『元亀三年七月一日付け織田信長書状案(願泉寺文書)』
これは江北へ出陣する前に、信長が松永久秀ら大和衆に出陣の動員令を発した書状です。
「砦を構築するので、鍬(すき)鍬(くわ)を持参するように」と命じている点が興味深いです。
信長は、朝倉義景が決戦を避けると読んでいたのでしょう。
この戦いが嫡男信重(信忠)の初陣であるという点を見ても、大した戦にはなるまいと考えていたのかもしれません。
事実、信長の読み通りに朝倉義景は決戦を避け、信長はかねてより用意させていた鍬(すき)鍬(くわ)などの道具を使用して、短期間のうちに虎御前山、八相山、宮部に砦を築いて軍勢を駐留させました。
この時期の様子を信長公記はこのように記しています。
(史料5)
七月十九日、信長公の嫡男奇妙公御具足初(具足初め=初陣)に信長御同心なされ、御父子江北表に至りて御馬を出だされ、其の日、赤坂に御陣取り、次の日、横山に御陣を居えられ、廿一(21)日、浅井居城大谷(小谷)へ推し詰め、ひばり山、虎御前山へ御人数上せられ、佐久間右衛門(佐久間信盛)、柴田修理(柴田勝家)、木下藤吉郎(木下秀吉)、丹羽五郎左衛門(丹羽長秀)、蜂屋兵庫頭(蜂屋頼隆)に仰せつけられ、町を破らせられ、一支もさゝへず推し入り、水の手まで追ひ上げ、数十人討捕る。
(中略)
七月廿七(27)日より、虎御前山御取出(砦)の御要害仰せつけらる。
然れば、浅井方より越前の朝倉かたへ注進の申し出、尾州、河内長島より、一揆蜂起候て、尾 濃の通賂をとめ、既に難儀に及ばせ候間、此の節、朝倉馬を出だされ候へば、尾 濃の人数悉く討ち果たすの由、偽り申し遣はし候。
注進、実に心得、朝倉左京大夫義景、人数壱万五千計にて、
七月廿九(29)日、浅井居城大谷(小谷)へ参着候。
然りと雖(いえど)も、此表の為体見及び、抱へがたく存知、高山大づく(大獄山)へ取り上り、居陣なり。
然るところを足軽どもに責むべきを仰せつけられ、則(すなわ)ち、若武者ども野に臥せ、山に忍び入り、のぼり さし物道具を取り、頸(首)二ツ三ツ宛て取り参らざる日もこれなし。
高名の軽重に随ひ、其の御褒美を加えらるゝの間、弥(いよいよ)嗜み大方ならず。
(中略)
虎御前山御取出(砦)御普請程なく出来訖ぬ(おわんぬ=完了したということ)。
(中略)
虎ごぜ山より横山までの間三里(約12km)なり。
程遠く候間、其の繋ぎとして八相山 宮部郷両所に御要害仰せつけらる。
宮部村には宮部善祥坊(宮部継潤)を入れをかせられ、八相山には御番手の人数仰せつけらる。
虎後前山(虎御前山)より宮部まで路次の一段あしく候。
武者の出入りのため、道のひろき三間(約5.4m)、間中に高々とつかせられ、其のへりに敵の方に高さ一丈に五十町(約5.5km)の間、築地をつかせ、水に関を入れ、往還たやすき様に仰せつけらる事も、おびただしき御要害、申すも愚かに候。
信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋
この出来事から約2か月ほど経ったものですが、信長が上杉謙信に江北の戦況を詳細に伝えた史料が存在します。
(史料6)
朝倉義景江北小谷に至って籠城に候。
種々帰国を調儀の由に候へども、懸け留まり候間、測り難く、一日一日とこれある旨に候。
是非とも討ち果たし候。
但し夜中に敗北に付いてハ、了簡に及ばず候。
この体たらくに候条、其の節一揆等に朝倉の加勢は不実に候。
爰元の趣、専柳斎(山崎秀仙)の見及ぶ如くに候。
小谷を後詰、虎御前山と申すに、地理三ヶ所申し付け候。
此の山と横山の間に宮部と申す地候。
これにも一城を相構え、人数淘々と入れ置き候。
信長は横山に移り候。
東国辺の事、いよいよ聞き合すべく候。
その表備え堅固に仰せ付けらるべき儀、簡要に候。
追々申すべく候。
恐々謹言。
(元亀三年)九月二十六日 信長
不識庵(=上杉謙信)
進覧之、
元亀3年9月26日 越後上杉謙信宛書状写(米沢市立図書館所蔵『新集古案』『温故足微抜萃』)
つまり、
朝倉義景は浅井の援軍として江北の陣中にいるが、帰国を企図しているらしい。
しかし、それが上手くいかずに一日一日を過ごしているという。
是非とも討ち果たす。
ただ、夜中に陣を引き払われたのならば考えようがない。
この有様だから、一向一揆に朝倉氏が援助するとの風聞は事実ではない。
この見解は貴殿の使者である山崎専柳斎の見聞きした通りである。
浅井の兵を小谷に追い詰め、虎御前山等の地に3か所砦を築いて兵を入れ置き、信長は横山に移った。
東国の情勢は可能な限り情報を収集する。
貴殿も備えを堅固にすることが肝要である。
と書いています。
9月になって義景帰国の動きは信長の情報網に捕捉されていたのかもしれません。
9月22日に近江の一揆・中島惣左衛門は、朝倉方の小松原孫三郎へ「武田信玄がもし約定を違えて出馬しないのであれば、近江近辺の戦況は最悪になる」とする書状を送っています。『誓願寺文書』
10月18日に信長が上杉家臣の河田重親に宛てた書状には、「信長が美濃に帰り、徳川軍と連合して何とかして駿州に防衛線を敷き、武田信玄を討ち取る決意である」と書状を書き送っています。『歴代古案』
このように、信長は上杉謙信と連絡を密に取り合う一方、朝倉義景らは武田信玄の行動を頼りにしている様子が見えてきます。
こうした情勢の中、将軍足利義昭は何を考えていたでしょうか。
信長、将軍足利義昭に弾劾状を送りつける
虎御前山など3ヶ所に砦を築いた信長は、軍を解散して岐阜へ帰ります。
すると、突然将軍義昭に対して「異見十七ヶ条」と呼ばれる弾劾状を送りつけました。『尋憲記・年代記抄節・吉川友康氏所蔵文書』
文章量が多いのでこの史料の詳細は省略しますが、信長は一人でも味方を多く作るために、将軍の悪い部分を列挙して糾弾しています。
最後の一文には
“万事に於いて貪欲で、道理も外聞も無視なさるるとの風聞である。それ故に下層の農民百姓までも「あしき御所」と噂している由である。“
としています。
この条書の解釈については学者先生の間でも見解が異なるようなので、私の個人的な見解は書きませんが、これにより信長と将軍の対立が決定的となり、この年冬の信玄快進撃に呼応し、やがて義昭は信長打倒の兵を挙げるのです。
信長・信玄間の外交破綻と遠山景任の死
もともと織田信長と武田信玄が友好的な関係であったことは先に述べました。
しかしながら、ここにきて信長と袂を分かつ決定的な事態が発生します。
それが徳川家康の動きと、美濃岩村城主遠山景任の病死です。
岩村城は織田領と武田領の境目に位置します。
信長が家督を相続するよりも前の時代に、信長の叔母であるおつやの方が景任に輿入れしており、織田家と遠山家は長らく姻戚関係でした。
一方、遠山氏は武田氏とも昵懇な関係で、織田氏と武田氏に両属するという形で家名を保ってきました。
信長も信玄も、遠山氏には一切手を出さない境目の領地として、一種の非武装地帯にすることで和平を保ってきたのです。
天守が標高721mに位置し、堅固な要塞として知られる美濃岩村城
しかしながら、信長が江北の陣中にいた元亀3年(1572)8月14日に遠山景任が死去したことにより状況が一変します。
というのは、遠山景任とおつやの方の間に家督を継ぐべき嗣子がいませんでした。
さらに、分家にあたる苗木遠山家の当主も同時期になくなっています。
この事態を重く見た信長は、自らの子である御坊丸を養嗣子として送り込み、岩村城主としたのです。
この信長の行動は、信玄へ事前の通告なしに行われたと見えます。
それに加え、外交上での利害の不一致、双方が抱える不信感が合わさり、織田-武田間の外交関係は急速に悪化。
やがて両者は干戈を交えることになりました。
(史料8)
只今出馬候。
この上は猶予無く行に及ぶべく候。
八幡大菩薩、富士浅間大菩薩、氏神新羅大明神照覧偽にあらず候。
(朝倉)義景相談ぜられ、この時運を開くべき行尤もに候。
恐々謹言
(元亀三年)十月三十日 信玄
浅井下野守(久政)殿
浅井備前守(長政)殿
『南行雑録所収文書・東浅井郡志 巻弐』
武田信玄西上作戦のはじまりです。
信玄は北条家からの援軍も加えて東海道を西進。
徳川領を蹂躙します。
加えて美濃の国衆の懐柔工作を展開し、岩村一帯を支配する遠山氏を帰順させました。
まとめ
長い文になって申し訳ありません。
次回は信長が上杉謙信へ宛てた書状の中盤を解読するとともに、上杉家の視点からいくつかの史料を引用して、この時期の外交情勢を書きたいと考えます。
上杉氏は明治まで家名を残した大大名なので、現存している史料が豊富です。
調べているとなかなか面白いんですよこれが( ̄▽ ̄;)
この元亀3年(1572)の大まかな流れとしては
1月北条氏政が上杉謙信と断ち武田信玄と結ぶ。
徳川家康と上杉謙信が対武田で結ぶ。
↓
閏1月上杉謙信が利根川を挟んで武田北条と対峙
↓
3月織田信長、江北に兵を出すも空振。木戸・田中に砦を築く
↓
将軍足利義昭、信長に武者小路の邸地を進呈し、信長御座所の普請が始まる。
細川昭元と石成友通に謁見を許す。
↓
4月謙信帰国
信長、毛利家に浦上宗景・宇喜多直家の和睦を勧告(将軍の意)
↓
三好義継・松永久秀挙兵。河内交野城を攻撃するも、織田足利軍が後詰を派遣
↓
5月大友宗麟が上洛を望むも、信長は毛利家との関係を考慮し、遠慮してもらう。
織田足利軍、多聞山城を攻撃し、松永久秀をはじめ奈良興福寺や東大寺が降伏
↓
6月越中で上杉苦戦。火宮落城
7月信長自ら江北へ出陣し、虎御前山、八相山、宮部に砦を築く
↓
8月朝倉家臣前波氏ら降伏。
岩村城の遠山景任病没。信長は嗣子を送り家督を継がせる
足利義昭第一子生まれる
信長が上杉武田の和睦を勧告(恐らく将軍の意)。
武田信玄が本願寺と信長の和睦斡旋(恐らく将軍の意)
謙信自ら越中に出陣し流れが変わる
↓
信長、将軍に異見十七ヶ条を送付
↓
10月武田信玄が遠江へ進撃
上杉謙信、富山城を攻略
↓
11月14日美濃岩村城を降す。信長の子御坊丸捕まり甲斐へ送られる
松永久秀、大和国片岡の近辺を放火。筒井順慶勢が出撃し、これを撃退。
↓
11月20日今回記事にした織田信長が上杉謙信に宛てた長文の史料
↓
12月三方ヶ原の戦い
がありました。
参考文献:
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加藤友康, 由井正臣(2000)『日本史文献解題辞典』吉川弘文館
小和田哲男(1973)『戦国史叢書6 ―近江浅井氏』新人物往来社
羽下徳彦,阿部洋輔,金子達(2008)『別本歴代古案 第1』八木書店
羽下徳彦,阿部洋輔,金子達(2010)『別本歴代古案 第2』八木書店
羽下徳彦,阿部洋輔,金子達(2011)『別本歴代古案 第3』八木書店
吉岡勲ほか11名(1979)『日本城郭大系 第9巻』新人物往来社
太田牛一(1881)『信長公記.巻之上』甫喜山景雄
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
中田祝男(1984)『新選古語辞典』小学館
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など