こんばんはー。
将軍・足利義昭が挙兵する石山・今堅田の戦いあたりの織田信長の年表記事を作成中でした。
良い機会なので、まさにこの時期に信長が幕臣の細川藤孝に宛てた書状を解読したいと思います。
この書状を見ると、この時期の細川藤孝の立場や考え方、天下静謐を願う織田信長の意外な想いなどが見えてきます。
今回もいつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳、当時の時代背景もご紹介します。
和平を望む信長が細川藤孝に宛てた書状(元亀四年二月二十九日付け織田信長書状)
今回は少しだけ長い内容なので、二つに分けた。
原文
釈文
(a)
(端裏ウハ書)
細川兵部太輔殿 信長
芳簡殊に十二ヶ条之
理共具聞届候、被入御
精候段、不勝計事ニ候、
一、公方様へ嶋田 友閑
を以、甚重ニ御理申半候、
被聞食直、入眼ニ付而ハ
奉公衆の質物共可
参候間、信長質物とも
可進上候、
一、公義其之質物之
(b)
事、被 仰下候由候、某
信長於上洛者、平均ニ
可申付之条、乍恐可被
御心安候、天下再興本
望候、其之御事連々
雖入魂候、 以来猶以
不可有疎意候、京都
摂 河辺之儀、追々御
注進大慶候、弥無御
油断才覚簡要ニ候、
恐々謹言、
二月廿九日 信長(花押)
原文に釈文を記してみた
書き下し文
(端裏ウハ書)
細川兵部太輔殿 信長
芳簡、殊に十二ヶ条の
ことわりともつぶさに聞き届け候。
(細川藤孝が)精を御入られ候の段、
あげてかぞわざる事に候。
一、公方様へ島田・友閑を以て、
甚重におんことわり申す半ばに候。
(もし)聞こしめし直され、入眼については、
奉公衆の質物どもが参るべく候間、
信長質物とも進上するべく候。
一、公儀からそれがしの質物の事を仰せ下され候よしに候。
それがし信長が上洛するに於いては、
(畿内を)平均に申付くべくの条、
恐れながら、みこころ安くせらるべく候。
(信長は)天下再興が本望に候。
其のおん事、つらづらにじっこん候といえども、
以来なおもって疎意べからずに候。
京都・摂・河辺りの儀、
追々の御注進を大いに慶び候。
いよいよ御油断無き才覚が肝要に候。
恐々謹言
二月二十九日 信長(花押)
原文に書き下し文を記してみた
難読箇所や留意点の解説
端裏ウハ書とは端裏書(はしうらがき)のことで、文書の受取人が端裏の部分に日付や内容を略記することで、インデックス化しようとしたもの。
もう少し詳しく述べると、文書の右端を端といい、その裏に書かれた文字が端裏書。
文書はふつう左端(奥)を内側にして折り畳むから、完全に折り畳むと端裏の部分が表に出る。
ここに受取人が略した内容を記しておくと、いちいちその書状を開かなくてもその内容が把握できる。
ちなみに細川兵部太輔(兵部大輔=ひょうぶたゆう又はひょうぶたいふ)とは細川藤孝(幽斎)のこと。
細川藤孝(幽斎) (1534~1610)
足利将軍家の臣。
主君・義輝の横死後はその弟・義昭の擁立に貢献。
明智光秀とは親友で、その娘を息子の忠興が娶っている。
その後は的確な情勢判断で細川家の命脈を保った。
古今伝授を受けた文化人としても著名。
可=(べく、べき)返読文字右の本格派右腕エース。
被=(られ、らる)受け身系。返読文字左の軟投派左腕エース。
理=(ことわり)これだけで”ことわり”と読む。
具=(つぶさに)これだけで”つぶさに”と読む。
芳簡=(ほうかん)芳書(ほうしょ)のこと。
目上の人からの書状という意味。
被聞食直=(きこしめしなおされ)(和議を)承諾し、聞き入れていただけた場合は。
質物・・・人質のこと
平均・・・読み方は(へいきん)で良いと思うが、意味は「均しく平らげ」という意味。
乍恐・・・(おそれながら)
雖・・・(いえども)これだけで”いえども”と読む。
意味は~といえども。返読文字になる場合が多いので、文節の1文字目にくる場合が多い。
京都 摂 河・・・京都(山城国)と摂津国および河内国という意味。
弥・・・(いよいよ)これだけで”いよいよ”と読む。
島田、松井・・・織田家の吏僚として信長を支えた島田秀満(ひでみつ)と松井友閑(ゆうかん)のこと。
島田秀満はこの後しばらくして病没するが、松井友閑は老齢ながら堺奉行としての活躍もあった。
関連記事:信長の野望にも登場しない島田秀満 名奉行の知られざる足跡を辿る
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元亀4年ってあんの?天正元年じゃね?
と思われた方もいらっしゃるかもしれないが、
元亀4年は7月27日まであり、28日から天正と改元されている。
(かねてより元亀の元号が不吉だと不満に思っていた信長は、将軍義昭を追放した直後に朝廷へ奏上して天正への改元を願い出た)
現代語訳
細川藤孝殿からの12ヶ条に及ぶ道理の記された書状を拝見した。
藤孝殿が精を出してくれるのは大変ありがたい。
1.公方様(将軍・足利義昭のこと)のもとに島田秀満と松井友閑を遣わし、和議に向けての交渉をしている最中であり、先方がもし和議を聞き入れてくれるならば、奉公衆(幕臣の有力者)から人質が来るので、信長の方からも公方様へ人質を進上する。
2.公方様から人質のことを仰せになったとのこと。
信長が上洛すれば、ただちに畿内を平定するのでご安心されたし。
信長は天下再興が本望であり、このことについては今までも、そしてこれからも疎かにはしない。
京都、摂津国、河内国などの情勢をたびたび注進してくれて大変うれしい。
これからも一層油断なく励んでくれることを願う。
敬具
(1574年)2月29日 信長(花押)
この書状の時代背景
武田信玄ついに立つ
この書状の前年である元亀3年(1572)秋。
甲斐の武田信玄が織田信長と手を切り、西上作戦を開始する。
11月中旬には徳川家康領へ侵攻し、遠江の過半を勢力下に治めた。
また、信長領国の美濃岩村城も攻略。
信長が近江への警戒の為に兵を出せない状況の中で、信長包囲網の環はじわじわと狭まり始める。
12月22日には遠江・三方ヶ原の合戦で徳川・織田連合軍は武田信玄に完敗。
翌元亀4年(1573)2月初旬には三河野田城が陥落する。
関連記事:織田信長の年表ちょっと詳しめ(10) 武田信玄 ついに西上作戦を開始する
将軍・足利義昭の挙兵
この報せに大きな勇気をもらった将軍・足利義昭はついに自ら兵を挙げることを決意。
足利義昭(1537~1597)
室町幕府15代将軍。
織田信長が後ろ盾となり将軍職に就くがほどなく対立。
方々へと御内書を送りまくり、信長包囲網を敷く。
自らも挙兵するが信長に敗れ、京を追われた。
本能寺の変で信長が横死し、秀吉の世となるも、再び政治の表舞台に立つことはなかった。
反対する側近の細川藤孝や同じく幕臣の明智光秀の意見を聞き容れず、光淨院暹慶(こうじょういんせんけい)(後に還俗し山岡景友と改名)に命じて近江石山・今堅田に砦を築いた。
上野清信、山本対馬守、渡辺宮内少輔、磯谷久次、さらに伊賀・甲賀の忍者衆らも将軍の味方に加わり、信長が兵を出せないのを良いことに京都周辺の守りを固めはじめる。
織田信長、桶狭間以来の人生最大の危機。
誰の目から見ても織田政権瓦解は明らかだった。
武田軍の不可解な軍事行動
しかし、この時既に武田軍は甲斐へと退却を開始していた。
武田信玄の病が重篤化し、西上作戦を切り上げたのだ。
徳川家康から連日武田軍の不可解な動きを知らされていた信長だが、信玄一流の兵法かと警戒し、初めは兵を出さなかった。
日が経つごとに「これは本当に病状が悪化して兵を退いたらしい」と確信を持った信長は、京都でただ一人兵を挙げている足利義昭討伐を決意した。
窮地を脱した織田信長の反撃
同年2月20日。
信長は柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆の4名に将軍討伐を命じる。
2月22日には信長からの使者として村井貞勝、島田秀満、松井友閑が京都に到着し、将軍義昭に和睦を提案した。
これはおそらく最後通牒のような意味を帯びていたであろう。
信長から人質を出して起請文(誓紙)の提出を言上するも、義昭は拒否して交渉は決裂した。
石山・今堅田の戦い
2月24日。
早くも柴田勝家らの軍勢は近江勢多の渡を越え、光淨院暹慶の籠る石山城を攻撃。
足利方は伊賀、甲賀の衆を味方に加えて激しく抵抗するも、石山城はまだ普請の途中だったらしく、わずか2日で陥落した。
柴田勢らは29日に今堅田城も攻撃。
明智光秀の手勢が囲い舟より東から攻め上り、丹羽長秀、蜂屋頼隆勢が東南方面より一気に攻め立て、わずか2時間ほどで落城してしまった。
この書状はまさにこうした状況で織田信長が細川藤孝に宛てたものである。
将軍との和平を望む信長の真意とは
これまでの通説のように、織田信長が天下取りのために利用価値の無くなった将軍・足利義昭を悪者にして、好んで追放したというのは、どうも真実ではないように思う。
信長は最後の最後まで将軍との協調路線を歩もうとしていた。
それを裏付ける史料からはたびたび「信長の方から人質を差し出す」や、「起請文(誓紙)を出す」などの文言が見られる。
今回の書状も「信長の方からも公方様へ人質を進上する」とある。
最終的には将軍は追放されるのだが、信長はこの後、一度は将軍を許して4月に和睦するのだ。
しかし、同年の7月。
義昭は講和を破棄し宇治・槙島城で再び挙兵する。
幕臣としての細川藤孝の立場
細川藤孝は足利義昭の命の恩人であり、彼の奔走が無ければ義昭は将軍になることは叶わなかった。
織田信長の助力を得て足利義昭が室町幕府第十五代将軍となってからは、藤孝は将軍の側近として間接的に信長に協力するようになる。
やがて信長と義昭との対立が激化すると、細川藤孝は信長と敵対することの愚かさを将軍に訴えている。
元亀3年(1572)1月18日には、足利義昭の面前で細川藤孝は、信長討つべしと主張する同じく側近の上野秀政と激しく口論している。
この頃から将軍一番の側近である細川藤孝は次第に離心し、明智光秀と同じように信長へと心を寄せるようになったのかもしれない。
今回の書状にも「(細川藤孝殿からの)12ヶ条に及ぶ道理の記された書状を拝見した」であるとか、「京都、摂津国、河内国などの情勢をたびたび注進してくれて大変うれしい」と記されている。
細川藤孝はこの時期、将軍から完全に干されていたと見え、信長の臣へと鞍替えしようとしていることが、結びの部分の「これからも一層油断なく励んでくれることを願う」などから読み取ることができる。
親友である坂本城主・明智光秀とよく相談して決意したのかもしれない。
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今回もご覧いただきありがとうございます。
この時期の織田信長は史料も豊富ですごく面白いんですよ~。
(沼にハマれ)